エリア・カザン監督「エデンの東」(★★★★) | 詩はどこにあるか

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監督 エリア・カザン 出演 ジェームズ・ディーン、ジュリー・ハリス、レイモンド・マッセイ

 この映画では役者だけではなくカメラも演技をする。ジェームズ・ディーンと双子の兄、父との夕食。テーブルをはさんで「聖書」を読む。そのときカメラは水平ではない。傾いている。これはジェームズ・ディーンと父との関係が不安定であることを象徴している。その象徴表現に「もの」、あるいは「音楽」をつかうのではなく、カメラが自ら不安定な位置をとる。カメラ自身の演技である。カメラが不安と不和を語る。ジェームズ・ディーンの姿勢、そして父の姿勢が不自然に傾いているが、それは彼ら自身の体の傾き以上にカメラが傾いているからである。この不自然さを伝えるために、カメラはテーブルの水平面を斜めに映し出す。広いスクリーンに傾いたテーブルが、落ち着かない父子のこころを語るように、ぐらぐら揺れる。
 ラストシーンでは、このカメラが安定する。卒中で倒れた父。そのそばで語りかけるジェームズ・ディーン。力を振り絞って父が何か語る。ジェームズ・ディーンは体を乗り出させ、耳を父の口元に近づける。そのときジェームズ・ディーンの体は傾いている。けれど、とても落ち着いている。安定感がある。彼自身のこころが決まっていて(安定していて)、それに合わせるようにカメラが水平にどっしり構えているからである。
 カメラ自身の演技が対照的な形でスクリーンに定着している。
 しかし、なぜ、こんな演技をカメラにさせたのだろうか。役者、ジェームズ・ディーンの演技に不安があったのだろうか。愛をもとめて揺れるこころ――ジェームズ・ディーンの陰りのある顔、その目は十分に不安を具体化しているように見えるが。もしかすると、美貌が不安を表現するには不似合いと、監督が判断したのかもしれない。そのままでは、観客はだれもストーリーや役者の演技を見ない。ただジェームズ・ディーンの顔を見るだけだと。
 けれど、カメラがどんなに演技をしようと、やはり観客はジェームズ・ディーンの顔しか見ないだろう。その、悲しみと喜びが一瞬のうちに入れ替わる顔の輝きしか見ないだろう。繊細な顔を流れる涙を見つめるだけだろう。
 他の役者達はそんな役どころである。しかし、ある時代、一瞬の生きたジェームズ・ディーンとともにスクリーンに存在したということは、他の役者にとって悪いことではないだろう。
 カメラの演技について書きすぎて書き忘れそうになったが、自然の描写がどっしりしていて、そのカメラの位置に感動した。(昔見た時は気がつかなかった。)ジェームズ・ディーンが氷を落とすシーンや、列車から溶けた氷の水がなだれ落ちるシーンなど、あ、いいなあと思った。

 


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