ナボコフ『賜物』(6) | 詩はどこにあるか

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ナボコフ『賜物』(6)

 彼は店に向かってさらに歩きだしたが、たったいま目にしたものが--同じような性質の喜びをもたらしてくれたからなのか、それともだしぬけに彼を襲って(干草置き場で子供が梁からしなやかな闇に落ちるときのように)揺さぶったからなのか--もうこの数日間、何を考えてもその暗い底にひそんでいて、ほんのちょっとした刺激を受けただけで浮かび上がって彼を虜(とりこ)にしてしまう、あの愉快な何かを解き放ったのだ--ぼくの詩集が出たんだ。

 「それとも」。この短いことばの不思議さ。
 「それとも」によって、ナボコフの想像力は自由になる。いま書いたばかりのことと正反対のことを書くことができる。
 そして、この「正反対」が、ナボコフのこの小説の場合、地の文ではなく、かっこに入って書かれている。子供のときの思い出。それは、いまの、この現実の時間からもかけ離れている。
 本来、「それとも」は同じ次元での逆の立場(正反対)でなければ、文意をなさないはずである。たとえば、彼は喜んでいる。「それとも」悲しんでいる。(あるいは怒っている。)--というふうにつかうのが普通である。そういう「正反対」を併記するとき、「それとも」がくっきりと浮かび上がる。しかし、ナボコフはそういう「文法」にとらわれない。もっと自由に、なんとでも結びつける。
 しかし、「なんとでも」とは書いてみたが、それは「なんとでも」ではない。
 よくよく読むと、ナボコフがここで書いている「それとも」は正反対ではない。逆説ではない。むしろ、共通していることがらである。「それとも」には似つかわしくない不思議な状況である。「正反対」というよりも、いま書いたことをより深く掘り下げたことがらである。別の次元へまで掘り下げている。「同じ性質の喜び」を「もたらしてくれた」のか、それとも「同じ性質の喜び」が彼を「揺さぶった」からなのか。「もたらす」と「ゆさぶった」--それは、ほんとうに「それとも」で結びつけることばなのだろうか。
 「それとも」よりも「さらに」の方がふさわしいかもしれない。
 「同じ性質の喜び」をもたらし、さらに「同じ性質のよろこび」で彼を揺さぶる。この場合、「同じ性質」は実は「同じ」というより「より強い」「より根源的な」というべきだろう。ある性質の喜びをもたらし、「さらに」、その喜びよりも「より根源的な」喜びが彼を揺さぶった。
 そして、この「より根源的」はあまりにも個人的過ぎるので、「さらに」という連続性のあることばよりも、断絶(飛躍)が目立つ「それとも」が選ばれているという印象がある。
 それにしても、このかっこのなかの子供時代の「喜び」のなんとうい不思議な甘さ。苦しさ。墜落と、それを受け止める温かさ。「子供時代」特有の、人間の「根源」にふれるような喜び。闇に落ちていく、そしてその闇は温かい。--明るい天上にのぼるのではなく、暗い、温かい闇に落ちる。ああ、そのなんともいえない矛盾。
 どこかに、そういう無意識が照らしだす「矛盾」があって、それゆえに「それとも」が選ばれているともいえる。
 ナボコフの魔術は華麗なことばだけではなく、「それとも」というようなだれでもがつかうありふれたことばのなかにこそ、強烈に根を張っているのかもしれない。





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