新井啓子『遡上』はとても静かな静かな静かな詩集である。そして、その静けさがとても気持ちがいい。
読みはじめたばかりのときは、その静けさにとまどってしまう。私はたいていの場合、鉛筆を片手に余白に思いついたことを書きこんでいく。そうすると、何も書くことがない。強烈な印象が残る行があるというわけではない。思わず傍線を引いてしまうという行があるわけではない。あることばに触発されて、何かを思いつくわけではない。「現代詩」を読んでいる、いや、文学を読んでいるという刺激的な感じがしない。
こころが落ち着く。新井の書いていることばにこころがひっぱられるというよりも、読んでいるとこころが落ち着く。1行1行が自己主張してどこへ行くのかわからないという感じではなく、書かれるままに、その位置で静かに存在していて、その存在の仕方の「総体」が美しいのだ。
この美しさはどこから来るのだろうか。
「辺境」の、1ページを過ぎたところまできて、私はようやく、あ、新井のことばの静けさの特徴がわかった、と思った。
八重曲がり ここがバスのすれ違い場所
これは、新井の故郷の細い道のことを描写しているのだと思う。曲がりくねった岬巡りの道。1車線で、車はすれ違うことはできない。けれど、その道は曲がりくねっているがゆえに、カーブの所だけ少し幅が広くなる。直線の所よりも広くなる。そのわずかな広さを利用して車がすれ違う。そういう道である。こういう道は、初めてのひとにはとても行きづらいところである。しかし、通い慣れているひとは、その道がどんな具合になっているか知っているので、道を曲がりながら遠くに対向車が見えたとき、そういうわずかな広がりの所で向こうから車が来るのを待っている。それが自然なマナー、というよりも、暮らしの知恵である。その「知恵」が自然にあらわれているのが「ここがバスのすれ違い場所」ということばの「ここ」である。「ここ」はその岬の道を通い慣れているひとには「ここ」とわかるが、そうではないひとには「どこ」かわからない。新井は、新井とともに生きているひとが自然に体得している「ここ」を知っていて、それをことばにしている。新井のことばは、新井が生きている「場」で共有されていることばなのだ。
岬巡りの のたくった道を行くと
上って 下って 巻き込まれて
八重曲がり ここがバスのすれ違い場所
岩の見える展望台 崖下の祠 経年の静寂
(またマツクイムシにやられちょう)
(海の色がおぞいが)
バスに乗り合わせたひとは、向こうからやって来るバスとすれ違うまで、まわりを見て、ぼんやりと話している。そこでは自然に、その土地のことばが出てくる。「共有」されていることばが出てくる。「やられちょう」(やられている)「おぞい」(かんばしくない、あざやかではない、--うーん、残念なというのが一番「標準語」に近くなるのだろうか。「大学、落ちてしまった」「おぞいことしたなあ」というような感じのことばだろう。)そこには、たの「場」で暮らしているひとにはなじみがないけれど、その「場」で暮らしているひとには完全に「共有」された感覚が生きている。
ことばはひとに「共有」されて動くとき、とても静かなのだ。ことばは他人と何かを主張し合うためにあるのではない。他人と「場」をともに生きるためにある。「共有」はこのとき「共生」になる。あらいのことばは、そういう「肉体」(思想)をもっている。
だから、その詩に「比喩」がでてきたとしても、それは「個性」を主張する「比喩」ではなく、その「場」に生きるひとによって「共有」された静かな「夢」なのである。
その自然さ--ことばを新井は誰かと「共有」し、そのことばを書くとき、新井はひとりではなく、他者とともに生きている。その生きていることの自然さが、新井のことば、新井の詩の美しさなのだ。
「シジミ」に、そういう静かな「比喩」が出てくる。
夜が明けると まだ薄暗い中を
青年はシジミ貝を獲りにいった
湖と外海をつなぐ運河の河口に
細かい砂の浅瀬かあった
湖面が肩に迫るほど
低く屈(かが)んだ青年は見たはずだ
朝日を突き抜ける機体の影や
靄(もや)にうなだれている軍用造船所の旗
石飛ばしを競った橋げたに
群れていた薄紫の蝶
この「薄紫の蝶」は空を飛ぶ蝶ではない。シジミである。小さな小さな二枚貝。そして、その蝶は死んで初めて蝶になる。生きている貝は蓋を閉じているので、蝶ではない。シジミを「薄紫の蝶」と呼ぶとき、その「比喩」を共有するひとの間では、また「死」も共有されている。
「死の共有」をかかえて、ことばは動いていく。
ゆうらり 帰って来なったが
暗くなっちょう あげなところに
わたしの作ったシジミ汁を吸い
年老いた青年は堅い口を解いた
忘れたいことや忘れられないことを
小さく丸くみっしりした思い黒光りすのものに
しんと隠してきたけれど
渡らこいや 渡らこい
えっと見えんようになっちょった
誰ぞ 待っておられぇけん
渡らこいや 渡らこい
いつでも誰ぇか追いかけちょう
えとしげなぁ こまい蝶だが
わたしたちは声をそろえ
羽ばたきを促すように貝殻を摘んだ
橋のたもとには逝った人の魂が集まるという
生まれる前にいたように
送り火の灯籠が
寄り合いたゆたうあのあたり
記憶の水辺
羽化したばかりの蝶になって
ゆらり 飛んでいる
ひとは誰でも生まれた場所に帰ってくる。鳥になって、風になって、あるいは何かほかのものになって。新井の生きていた「場」では、ひとは「蝶」になって帰ってくる。ただし、それは空を飛ぶ蝶ではない。シジミである。シジミは、死んで、死ぬことで、羽化し、蝶になり、そしてまた飛び立つ。
輪廻--それが「場」によって共有されている。
「橋のたもとには逝った人の魂が集まるという」のは、新井の生きてきた「場」の「神話」である。共有することで暮らしを調えてきた力である。そういう力を新井のことばはひっそりとかかえている。
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