高塚謙太郎「抒情小曲集」 | 詩はどこにあるか

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高塚謙太郎「抒情小曲集」(「エウメニデスⅡ」38、2010年10月31日発行)

 高塚謙太郎「抒情小曲集(ショート・ピース)」を読むと、私は一瞬、「もの」が見えなくなる。「もの」を視力で識別できなくなる。

陽のもっともみえる時刻の、目をみはるほどの膝うら
にたたえられた《もはや浜》の湖面そこからあふれさせずあふれ
敗意の飛沫たかくに、空いっぱいに、波紋の見えやすい方途の
澄ますと耳がきこえることを、袖口ににじませ
「膝うら」から「袖口」へかけてのかすかなしかしたおやかな
うしろ髪を束ね、ずず、進みでる《その浜》を、ならす

 これは「No16」の一部だが、私の視力は「膝うら」はかろうじてとらえるが、それ以外のものを目にみえるものとしてはっきり想像できない。ようするに、私には見えない。そして、見えているはずの「膝うら」も「うら」が「浦」に変わってしまい、ほんとうの(?)膝うらはどこにもない。遠い記憶のなかにしかない。
 そして、その記憶さえ、「浦」に、つまり「水辺」(浜辺、海辺)のようなものに乗っ取られて、何を見ているかわからなくなる。
 「もの」が見えなくなった代わりに、私は「音」を聞く。それは水辺の(特に海辺の)音のように飽きることなく繰り返している。その繰り返しは違う音なのか、それとも同じ音なのにたまたまなにかの加減で(実際の海であれば、たとえば風向きとか、飛んできたかもめとかの影響で)違って聞こえるだけなのか、はっきりしない。

陽のもっともみえる時刻の、目をみはるほどの膝うら

 この行には「もっとも」の「も」の繰り返しを中心にして「ま行」、「目(め)」「み」える、「み」はる、の繰り返しと、「は行」、「陽(ひ)」、み「は」る、「ひ」ざうら、の繰り返しが交錯し、ときどき「ら行」もまじる。みえ「る」みは「る」う「ら」。
 この交錯が、つぎの「もはや浜」に結晶する。も(ま行)・は(は行)・や・は(は行)・ま(ま行)。このとき「もはや浜」は「浜」の名前ではなく、音楽の「音」である。意味を失い、ただ「音」として存在している。「音」として、別の「音」、「和音」をつくるべき「音」をさがしている。
 「敗意の飛沫たかくに」の「飛沫」は「しぶき」とも「ひまつ」とも読めるが、「敗意の飛沫たかくに、空いっぱいに、波紋の見えやすい方途の」という1行のなかでは「しぶき」と読むのはつらい。「ひまつ」という「音」として動いている。
 こういう「音」の呼応は、私はとても好きである。視覚が消えて、その空白のなかへ「音」がつくりだす何かがあらわれてくる。「もの」にならず--いや、「もの」という姿をとるのかもしれないけれど、それは「もの」として別の「もの」と関係をつくらないまま消えていく。何が見えたのかわからず、けれども何かをみたかもしれないという気持ちが「音」のように消えていくのだ。
 高塚の「音」は「音楽」かもしれないが、そのタイトルが象徴しているように「交響曲」というような壮大な構造をもったものではなく、さっとあらわれて消えていく「小曲」そのものかもしれない。

 「No17」の次の部分もおもしろい。

舞え《おまえ》舞え
スカートが引きずられずにすむよう
裳裾にからめてじりじりと黒煙が立ちのぼるリズミカルに止血ぐるみ
なるほどその夕暮れが逢瀬のおわりとなったわけ
たくしあげてはひらり
たくしあげてはさらり

 「舞え《おまえ》舞え」の「まえ」の繰り返しのような単純な(?)ものから「(立)ちのぼるリズミカルに止血ぐるみ」のようなめまいを誘う「音」まである。
 この部分がめまいを誘うのは、たぶん「音」だけではなく「文字」(視覚)も影響しているかもしれない。立「ち」のぼる。止血は「しけつ」なのだが、血は「ち」でもある。私の視覚は、そこにない「もの」、ことばがあらわそうとする「もの」ではなく、文字そのものを「音」に還元して見てしまう。
 あ、いったい、何が起きたんだろう。わからずに、私はめまいを感じるのだ。



さよならニッポン
高塚 謙太郎
思潮社

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