角の薬局に向かって道を渡るとき、彼は思わず首を回し(何かにぶつかって跳ね返った光がこめかみのあたりから入ってきたのだ)、目にしたものに対して素早く微笑んだ--それは人が虹や薔薇を歓迎して浮かべるような微笑だった。
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「何かにぶつかって跳ね返った光」。反射。ナボコフのことばには、いつも反射があるように感じる。ことばとことばがぶつかりあって輝く。それ自体で輝かしいことばもあるだろうけれど、ナボコフは、衝突と反射によって、その輝きを自ら燃え上がる炎にするのかもしれない。
いま引用した部分では、「こめかみ」が自ら燃え上がる炎である。
光はどんなことをしたって「目」からしか入ってこない。私たちは視覚で光を見る。けれど、ナボコフは「こめかみのあたり」と書く。それは「目のこめかみのあたり(こめかみに近いあたり)」を超越して、「こめかみ」から入ってくる。見るための「肉体」ではないところから、光は目を通らずに入ってくる。網膜へ、ではなく、脳へ。
このとき、「こめかみ」は自ら燃え上がり、新しい「肉眼」になるのだ。
そういう「肉眼」が「見る」ものは、当然、「目」が見るものを超越した存在である。
ちょうどそのとき、引っ越しようのトラックから目もくらむような平行四辺形の白い空が、つまり前面が鏡張りになった戸棚が下ろされるところで、その鏡の上をまるで映画のスクリーンを横切るように、木の枝の申し分なくはっきりした映像がするすると揺れながら通りすぎたのだった。その揺れ方がなんだか木らしくなく、人間的な震えだったのは、この空とこれらの木々の枝、そしてこの滑り行く建物の前面(ファサード)を運ぶ者たちの天性ゆえのことだった。
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「人間的な震え」。この「人間的」は「目」では見ることはできない。「肉眼」になった「こめかみ」が見たものである。そして「人間的」というのは、実は「天性」のことである。この「天性」も「目」には見えないものである。
「肉眼」のなかを動く「ことば」だけがとらえることのできるものである。
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