私はカタカナ難読症である。カタカナが読めない--ことはないけれど、必ず読み間違いをする。正確には読めない。しかし、その読めないカタカナだらけの、北川透「O字脚的体験」のうちの「オノマトペア(母隠語)的体験」という詩がとても気に入った。
イウオイイウウエエウアイウアンアイ! オオ! オオ! オオ!
アウエオオアンアイ! ウオアアアンアイ! エアオオアンアイ!
イエイイウオウインアンアイ! アイアウオアエウオウアンアイ!
イイイアアエエ! ウエアエエ! アアエオイエ! アアアイエ!
イイアアアエアイオウオイオ! イイウイアアエアアアイイイオ!
何が書いてあるか、わかりません。
けれど、そのわからないことが気に入ったのです。
詩は「意味」ではない、と私は思う。詩にかぎらず文学(芸術)は「意味」ではないと思う。「意味」というのは、たぶん、それを書いたひとが抱え込んでいるものだが、そういうもので詩や文学(芸術)を読んだら、つまらないものが何一つなくなってしまう。だれだって真剣に生きているのだから、そのひとが感じている「意味」を理解した上で、それがつまらないというようなことはありえない。
これは逆に説明すると、簡単な論理に言い換えることができる。あるひとの作品をけなしたとき(?)、たいてい「私はそういう意味のことを書いたのではありません」という反論(?)が返ってくる。「私はこれこれの問題について真剣に書いているのです。意味を誤解して批評されては困ります」。ああ、そうですねえ。しかし、「意味」を筆者の書いている(意識している)とおりに受け止めるというのは「共感」そのものだから、「共感」して、それでも「つまらない」と言えるようなことは何もないなあ。
私は本を読むとき、筆者が何を考えているか、感じているかなど考えたことがない。「意味」を考えたことがない。「意味」に対して「共感」したことがない。私は私の問題で手一杯で、筆者の問題に真剣につきあうような余裕はないからだ。
私はただ「誤読」したいから読む。「誤読」したことだけを書きたい。別なことばで言えば、ある作品に触れて、そこから始まる私自身の考えをことばにしたいだけである。だれかのことばに触れると、私の知らないことが書いてある。そして、その知らないことのなかには、何か知っていることも含まれている。逆に、知っていることが書いてあって、その知っていることのなかに知らないことが含まれる、というのもある。そうすると、その知っていること、知らないことの間を、私の「肉体」が行き来する。そのとき、ことばが新しく動きはじめる。「誤読」が始まる。そのとき、私自身が、うきうきするのだ。だから、書くのだ。
あ、ずいぶん脱線してしまった。
北川の今回の作品。カタカナ難読症の私には、もちろん正確に読むことはできない。正確に引用しているかどうかもあやしい。( 5回、点検し直したが、まあ、私の引用はあてにせず、「耳空」で直接読んでください。)それでも、変な言い方だが、私は自身を持って、この作品の「音」が聞こえると言ってしまう。
読めない。けれど、音が聞こえる。いや、音が聞こえるから読む必要はないと思う。子音がない(ないわけではない、「ん」があるから)ので、口をただ開いて、声帯を震わせる。ほとんどでたらめに。アイウエオの音が入り乱れて響く。でも、それは、どこをとっても「アイウエオ」である。それ以外がない。いやあ、聖徳太子になったような気分。一瞬にして、全部の音を聞き取ってしまった「天才」の喜び(?)。
いいなあ。この喜び。一度でいいから、こんなふうにして、あらゆることばを一瞬のうちに理解するという「ハイ」な感じを体験したかった! それが、いま、できたんだ。
あ、私の「読み方」間違っています? そうでしょうねえ。知っていますとも。それくらい。だから最初に「誤読」と書いているのです。
私は、それが何であれ、「音」の聞こえることばが好きなのだ。
書きことばのなかには、私の「肉体」にはまったく聞こえない音がある。「肉体」をとおってくれない「音」がある。音読すれば、ことばから「音」そのものは出てくるのだけれど、そのとき、発声器官(のどや舌、口蓋など)と耳がいっしょに動いているという感じがしない「音」がある。「肉体」のなかで、音が肉体と肉体を結びつけないのである。そういうことばは、私には苦手なのである。
北川の今回の作品は、それとはまったく違う。私は北川の書いたことばを、音として正確には再現できない。再現できないけれど、似た感じで、音そのものを発声器官と耳とで協力してつくっていくときの快感そのものに酔うことができる。
こどものとき、これに似た遊びをしたことがあるなあ。「アアアアア」。母音のイントネーションとリズムだけで何かのことばを再現する遊び。伝えあう遊び。そういう遊びが成り立つのは、その友人と同じイントネーション、同じリズムでことばを発音し、耳で聞き取るという「肉体」の体験があるからだね。「肉体」のあらゆる部分が動き回って、発音されなかった「子音」を聞き取ってしまう。「音」にならなかった「音」を聞き取ってしまう。
あ、そうか。「隠語」とは、「音」(あるいは「意味」?)にならなかったことばを聞き取って、その「音」を「共有」することなのか。
この、あらわされなかったもの、ことばにならなかったものを、ことばとは別のルートで「共有」する--そのことは、詩を体験することにつながらないだろうか。
詩が書かれている。ことばが書かれている。けれど、そのことばのなかには、ことばにできずに書かれないまま隠れていることばがある。あるいは、筆者にとってあまりにも当然過ぎるので書き忘れたことば、書く必要性を意識しないことばがある。そうしたことばを、目ではなく、耳ではなく、喉や口蓋でもなく、肉体のもっと奥深くにある「肉体」(肉・肉体--と言えばいいのかなあ)で感じ取り「共有」する。
この「共有」の感じは、「誤読」そのもの、「誤解」そのものかもしれないけれど、その「誤る」という能動性のなかに、私は詩があると感じている。
*
渡辺玄英「星と花火と(光のゆーれい」には、私の「肉体」では聞き取れない音がある。
誰もいないところで
さよならと言ってみる
(だれもいないからセカイはしずか
書き出しの3行だが、3行目の「セカイ」が私にはまったく聞こえない。私にとって、それは存在しない音だ。ノイズというのではなく、つかみどこながない。私はカタカナが読めないので、それはひらがなで書けば「せかい」という音になるのかどうかも、よくわからないが、もしそれが「せかい」であっても「世界」であっても、私に聞き取れるかどうかわからない。
この3行目の「セカイ」の「音」を聞き取れるひとには渡辺の詩はおもしろいかもしれない。
*
樋口伸子「ポチ公見聞記(一)」は、まあ、どうでもいいことを書いている。どうでもいいことなので、どこを引用していいかわからないくらいなのだが、このどうでもいいことを書くときの「文体」がなかなかいいのだ。どれくらいいいかというと、ついつい、1行1行に「つっこみ」を入れたくなるくらい「肉体」に直接飛びこんでくる。「まんこみ」というのは「頭」でやるもんじゃない。「肉体」そのもので、「どつく」のが先で、あとで「どついた」ことを隠すために「ことば」で偽装する。「私は暴力は振るっていません。ちゃんとことばで表現しています。言論の自由です」というようなものだ。
で、どこに「つっこみ」を入れたいかというと……。
(犬に--筆者である「ポチ公」に)ロシア語が解るのかって?当たり前だよ、これ位のこと。おいらはロシア語習ってんだよ。ロシア語を習って何にするのかって?いやだねぇ、すぐそうくるから。あんただって英語習っただろ、数学だとか倫理学だとかネ。そしてそれらを何かにしてるのかい?物理や化学習ってヒューズ替えることもできないだろう。好きで古文読んで、それを手紙にでも書いているのかい?
いやあ、外国語って、役に立ちますよ。私は大好きですねえ。犬はスペイン語で「ペロ」というのだけれど、しかしも「ペロ」で、それは、ほらおいしいものを食べたとき「ペロ」っするのにつながる--というようなことは、わかんないかもしれないけれど、わが家の愛犬(ペロ)「わん太」は、「ごはん」を食べたあとフランス人みたいにデザートを要求するのだけれど、「食べた?」と聞くと間食したときは「ペロ」と鼻先をなめる。でも(ペロ)、少ししか食べなかったときは「ペロ」ができない。嘘がつけない。--で、何がいいたいかというと、ことばというのは「肉体」を潜り抜けることで、「肉体」に作用する。ことばにならないことが、いろいろなことばを体験することでどんどん「肉体」のなかにたまってきて、それが不思議な形で呼応し合って、どこかで通じ合うことばを生み出してしまう。そういうことにつながる。
数学も化学も倫理学も同じ。それがどんな具合に役立っているかは「肉体」にしかわからない。そんなもの「頭」の役にたつと思うからだめなんですよ。物理習ってヒューズが替えられない? 当たり前じゃないですか。肉体は「頭」とは違って、電気はびりっとくることを正確に知っている。それがどんなに気持ち悪いかも知っている。「頭」はこの「正確」と「気持ち悪さ」をことばにできない。それをことばにできるのは役に立たないと言われているへんてこな外国語やわけのわからない哲学をくぐらせた「肉体」だけなんだなあ。
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北川 透 | |
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渡辺 玄英 | |
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