ロブ・ライナー監督「スタンド・バイ・ミー」(★★★★) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

詩の感想・批評や映画の感想、美術の感想、政治問題などを思いつくままに書いています。


監督 ロブ・ライナー 出演 リヴァー・フェニックス、ウィル・ウィートン、キーファー・サザーランド

 冒頭、リチャード・ドレイファスの登場するシーンの風景が非常に美しい。山と原っぱ(丘?)の緑が美しい。いや、緑と書いたが、緑ではなく空気が美しいのだ。アメリカの田舎町。都会から遠く離れている。都会の匂いがない。都会はラジオから流れてくる音楽のなかにだけ存在する。それは田舎にとっては唯一のノイズだが、ノイズが逆に空気の透明さを輝かせる。音楽のノイズが透明な空気にあらわれて、きらきら光るエッジになる。そこにないもの、あってはいけないものさえ、美しく輝かせてしまう透明さ。それが、この映画のはじまりであって、またすべてである。
 4人の少年が、ふと聞いた死体を見つけにゆく。死体は、そもそもそこにあってはいけないものの代表だろう。あってはいけないものだけれど、だからこそ、少年たちを引きつける。そして、その死体を見に行きたい、見つけたいという欲望もまた、あってはいけないものだろう。あってはいけないのものだが、そういうものが純粋な少年をいきいきさせる。異様なことをする、常軌を逸脱する--そのことだけが人間に何かを教えてくれる。少年たちは無意識にそういうことを知っているのかもしれない。
 こういう無意識の危険、無意識の輝かしさは、あ、都会では無理だねえ。ニューヨークが舞台なら、こういう映画は成り立たない。
 田舎の、空気が透明な町だからこそ、こういうことができる。
 空気が透明ということは、その町で起きていることは、だれもが何もかも知っているということでもある。人間関係が、人間と人間のつながりが見える。誰と誰が兄弟であるとか、誰それの家は貧乏だとか、誰それの親は精神病院に入院しているとか--あらゆることが「見える」。見えていながら、ひとは時に知らないふりをするのだが、少年たちはそういう「ふり」をする術を知らない。少年たちは、その町の空気そのもののように、また透明なのだ。
 透明なままの少年たちが、しかし、小さな冒険の過程で少しずつ「不透明」を知る。実際にはいつも直面している「不透明さ」をより強く感じることになる。たとえば、ウィル・ウィートンは自分が父親に愛されていないという理不尽な思いに苦しんでいる。ノイズに苦しんでいるのだが、雑貨屋の男は少年の気持ちなど考えずに、死んでしまった兄をほめたたえ、そうすることで少年の存在を否定する。まるで、父親と同じである。ある価値観が、少年のありようをそのままでは受け入れないのだ。少年の透明さを受け入れるだけの、より深い透明さを大人はもっていない。
 リヴァー・フェニックスは給食代泥棒の濡れ衣を着せられている。盗んだ金は返そうとした。けれども、その金を教師に盗まれ、教師はその金でスカートを買ったらしい。「不透明なもの」が少年たちを傷つけている。少年たちをありのままみつめるのではなく、ある枠のなかに入れてしまって、自分たちの「暮らし」(価値観)を守るという「不透明さ」が、実は、世界に蔓延しているのだ。
 そこから、少年たちは、どうやって生きていくか--しかし、そんなことは、この映画は問題にしていない。ただ、その透明な少年たちが、透明なものを抱えたまま、互いにそばにいることを確認している。その時間を、ただ淡々と描いている。まるで、彼らが生きている町の自然そのもののように描いている。自然と呼応して生きている純粋な時間を描くだけである。
 木々の緑があり、川があり、光があふれている。そして町のそばには鉄道が通り、遠くの町(都会)とその世界を結んでいる。どの世界もどこかへつながっている象徴として鉄道はあるのだが、少年たちはまだ「鉄道」を持たない。鉄道ではなく(また、車でもなく)、ただ道なき道を歩いている。山と川との間を歩いている。
 いいようのない美しさにあふれる映画だ。いやだったこと、つらかったこと、悲しかったことさえ、透明さがあってはじめて見える輝きの一瞬と錯覚させる不思議な映画だ。あ、こういう時間はたしかに私にもあった--そう感じさせてくれる、なつかしい映画である。



スタンド・バイ・ミー コレクターズ・エディション [DVD]
クリエーター情報なし
ソニー・ピクチャーズエンタテインメント