ヴォイスラヴ・カラノヴィッチ「上昇」ほか | 詩はどこにあるか

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ヴォイスラヴ・カラノヴィッチ「上昇」ほか(山崎佳代子訳)(「現代詩手帖」2010年10月号)

 きのうヴォイスラヴ・カラノヴィッチの詩の感想を書いたところ、blue snow さんからコメントが寄せられた。blue snow は女性。「夜」を「子宮回帰」に似たロマンチックな世界と受け止めた、と書いている。
 あ、ヴォイスラヴ・カラノヴィッチは女性なのか。
 詩に、そのことばに、男性・女性の区別はないだろうけれど、私は女性が書いたとは想像しなかった。男性が書いたとも意識しなかったけれど、無意識に男の立場でことばの運動を読んでいた。

 半分に割った林檎が月になる、その月は花びらを散らしながら時間の夜を昇っていく--それを種子が夢見ている。その不思議な上昇と下降の交錯。上昇することではじめて種子(いのち)そのもの、しかも内部(上昇とは逆方向)にある「いのち」そのものが見える。
 たしかに、これはセックスだね。上昇と下降の結びつきによって、いのちの内部がよりくっきりみえてくる。セックス以外の何物でもない。
 私は「肉体」とは別な、「肉体」を離れた、一種天上の音楽のようなものを感じたが、もっと肉体に密着した何か、肉体に根ざした「音楽」がそこに響いているのかもしれない。

 そうか、女性なのか。そう思って、また別の詩を読み返してみる。「上昇」。

小さな ささやかなものから
はじめなくては テントウムシの
羽の黒い点から はじめなくては
揺らやぐ草や
野薔薇の花をこえ
伸びたり縮んだりする爪
茂みからのぞく前足をこえ
太陽を隠す
雲をこえて、とらえがたい
ひとすじの霧をぬけ、しかめ面して
自分の中でちぎれる風のところまで
麓から出発しなくてはならない

 「小さな ささやかなものから/はじめ」る。まず「小さな」「ささやかな」ということばからはじめてしまう。そういう抽象的なことばの出発は、私には「男性」の癖のように思えるけれど、この「小さな」「ささやかな」はテントウムシの黒い点そのものの具体的な何かなのだろう。
 たとえて言えば、「夜」の「林檎の種子」のように、「内部」に「いのち」として存在するものなのだろう。何かと対比し、そのなかから「小さな」「ささやかな」を抽象するのではなく、逆に、存在の内部へ突き進み、そこで必然的にぶつかる「具体」としての存在なのだろう。
 そう意識して読むと、ことばの動きがたしかにはっきりする。
 前へ進む--というのは、自分自身の中へ(内部へ--たとえば子宮へ)進むということである。「自分の中でちぎれる風」というときの「自分」は「肉体」そのもなのだ。

雲をぬける光
森をぬける獣のように
頂まで 命が濃くなり
鋭くなり 死が薄められ
軽くなる その点まで そこからすべてが
ささやかで小さく見える 出発しなくては
ふたたびそこから 下へ
なにかの形にむかって でかけるため
言葉が砕ける
その小道をたどって

 この詩にも「夜」と同じように、上昇と下降の結びつきがある。上昇するのは下降するためである。下降とは上から下へではなく、外から内部へ、である。
 そして、矛盾した言い方になるが、上昇とは(頂をめざす)とは、実は「内部」をめざすということである。「内部」、いのちの源--そこから見ると、テントウムシの黒い点も野薔薇の花も「ちいさな ささやかなもの」である。小さく、ささやかではあるけれど、いのちの具体化した「かわいい」存在である。
 そのことをしっかり「肉体」としてつかみ取って、それからもう一度「内部」へもどる。
 たぶん、内部から出発して、真実をつかみ取る--そのつかみ取るということが「頂」へのぼることである。「外部」を獲得することである。言い換えると、「ことば」を獲得することである。その「ことば」から、もう一度「内部」(肉体)へ引き返す。
 ことばを媒体にして、ヴォイスラヴ・カラノヴィッチは上昇と下降、外部と内部の往復運動をしっかりと定着させるのだ。そして、その「根源」には、blue snow さんの指摘している「子宮」があるのかもしれない。

 頂(外部)から下降する(内部へ回帰する)。そのとき「言葉が砕ける」。

 あ、これは美しい。ほんとうに美しい。
 男のことば、たとえばジョイスのことばを私は思い浮かべるのだが、男のことばは、ことばを突き破って外へ外へと広がる。広げようとする運動である。外への運動を加速するとき、ことばが加速に耐えられず分解する、砕ける。そのとき、詩が輝く。
 女のことばの砕け方は違うのだ。すくなくともヴォイスラヴ・カラノヴィッチは違うと考えているように思える。
 肉体の内部から出発した「いのち」は外部に触れることでことばを知る。そして、その知ったことをもう一度「内部」へ回帰させるとき、外部としてのことばは「砕ける」。そこに詩がある。そんなふうにして詩は誕生する。
 この哲学は強烈である。あざやかである。美しいとしかいいようがない。
 この美しさを教えてくれたblue snow さんに深く感謝したい。

 「静まりゆくもの」には、山崎佳代子の不思議なこころみがなされている。

ひとつひとつ
心臓の鼓動が擦れあう
砂の粒のように
僕といえば
身じろぎひとつしない
水底の砂の
ヒトデのように
静かに横たわる
僕をめぐる世界は
こんなに出来事ばかり
こんなに細部ばかり
僕は静かに
横たわる
僕をめぐる世界に

 「僕」と訳出されているのは「人称」ではないのかもしれない。「私」ではないのかもしれない。(女性なら--まあ、これは私の偏見なのだろうけれど、「僕」とは書かないだろう。)
 では、「僕」とは何者(何物)なのか。
 「上昇」に登場した「言葉」、それも砕けた「言葉」かもしれない。「砕けた言葉」と「肉体」の内部(子宮)を往復する何かを見つけ出したいと願っている静かな夢としての「いのち」。それが「僕」なのだろう。


現代詩手帖 2010年 10月号 [雑誌]
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