野村喜和夫「眩暈原論(3)」 | 詩はどこにあるか

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野村喜和夫「眩暈原論(3)」(「hotel  第2章」25、2010年09月01日発行)

 日本語の音--ということもないけれど、音が肉体に入ってくるときの快感、愉悦というものがある。きのう読んだヴォイスラヴ・カラノヴィッチ「夜」(山崎佳代子訳)は、日本語の音がじゃまして、そこにあるべき音が聞こえてこない感じがした。そういうとき、なんだか、とてもつらい。詩は、「意味」ではなく、意味を超える何かである。もちろん意味もあるのだろうけれど、意味がわからなくても、そこに書かれていることばにぐいとひっぱられるときがある。そういうとき、そこに「音」が存在している。「音」に肉体がひっぱられて、意味ではないものに触れる。意味を超えたものに触れる。その瞬間に、快感、愉悦がある。そういう作品が私は好きである。
 野村喜和夫「眩暈原論(3)」は書き出しが音のよろこびに満ちている。

まず、眩暈へと、空間はふくらめ。命令形でよいのかと、そういう声も聞こえてくるが、ひとの言葉がわかる空間だって、どこかにあるだろう。ふくらめよ、眼ら、含めて。

 眩暈が眼に限定された現象であるかどうかは、私はよくわからない。けれどここでは、まず、眼から出発している。眼が見るもの--空間。空間がいまある形からかわるとき、その変化は眼に作用し、眩暈を引き起こすかもしれない。
 でも、まあ、そんな「意味」は、私にはどうでもいい。
 「空間はふくらめ」の「ふくらめ」が、とても美しい。「ふくらめ」というような命令形(?)を私はつかったことがない。はじめて聞く(眼にする)音である。そのはじめての音が、なめらかで、のびやかで、それこそ「枠」をこえてふくらんでくる。そのふくらみに、瞬間的につつみこまれてしまう。
 「意味」はわかるが、なんだか奇妙である。奇妙であるのだけれど、音が美しいので納得してしまう。
 「意味」はわかる--と書いたが、まあ、意味としては実際奇妙だと思う。「ふくらむ」は自動詞であり、他動詞としてつかうときは「ふくらませる」である。命令形は「ふくらませる」を活用させてつくると思う。「風船をふくらませよ」「腹をふくらませよ」という具合。風船に「ふくらめ」と命令しても、風船はふくらまないね。風船をふくらませる競争をしているとき、応援で「もっとふくらめ、ふくらめ」と声をかけることがあったとしても、それは実際には風船をふくらませているひとに対して「もっともっと」と声をかけているのに等しい。風船は、そういう呼びかけには答えようがない。
 「空間」も同じである。だからこそ野村は「ひとの言葉がわかる空間だって、どこかにはあるだろう。」と補足(?)しているのだが、それにしたって、どうやって? どうやって空間は自らふくらむことができる?
 「意味」はわかるけれど、ここにかかれていることは「理不尽」である。「頭」は「理不尽」だと主張する。私の場合は。
 しかし、私の「肉体」は、それを「理不尽」だとは判断しないのだ。耳がまず、その音の美しさを感じてしまう。そして眼は空間がふくらむのを見てしまう。命令されてふくらむ空間などないのだが、その存在しないものを眼は見てしまう。そして、その空間がふくらんでくる様子が「ふくらめ」という音と美しく調和するのである。
 「空間は膨張せよ」でも「意味」は同じだが、耳と眼は違う反応をしてしまう。「ふくらめ」の方が私にはぴったりくる。やわらかくて、なまめかしくて、うれしい感じがするのだ。どこにもやわらかさとか、なまめかしさというものは書かれていないのに、それを感じてしまう。それで、うれしくなる。
 そして、いま、どこにも書かれないないと書いたことと矛盾してしまうのだが--それは書かれているとも感じるのだ。

ふくらめよ、眼ら、含めて。

 空間がふくれるとき、ふくれるのは空間だけではない。眼がふくれる。眼がふくらんだ空間をとらえるとき、眼そのものもふくらんでいる(とらえる領域、視界がひろがっている)。空間に眼は含まれて、一緒にふくらんでいく。
 この一体感。
 そこには、眼だけではなく、耳だけではなく、喉や舌や口蓋もふくまれる。「ふくらめ」「ふくらめよ」と声に出すとき、舌や喉や口蓋が動くからである。ここには「肉体」の一体感がある。音が発せられるときの、「肉体」の一体感がある。
 そして、最後の「ふくらめよ」と「含めて」の音の重複に、ふしぎななまめかしさを感じてしまう。
 ふくらむことは、ふくむこと。何かをふくむことはふくらむこと。
 好色な(?)野村のことばに影響されているせいか、たとえば、こんなことを夢想する。男が女の乳房を口に含んでいる。そのとき男のほっぺたはふくらんでいる。それだけではなく、男の口の中で女の乳房がふくらんでいる。男の口にふくまれることで、女の乳房はふくらみ、育つのである。
 だから、女は「もっと、もっと」と口走る。この「もっと、もっと」を翻訳(?)すると、「もっと吸って」かもしれないが、それは「もっと含んで」かもしれない。そして、私の「学校教科書文法」はいいかげんだから、「もっと含んで」は「もっと含めて」であるかもしれないと感じてしまう。いや、野村の書いた最後の「含めて」は「もっと含んで(吸って)」と同じことではないだろうかとさえ思うのだ。
 だって、命令形は「……し(せ)て」という形をとるでしょ? もっと風船をふくらま「せて」(して)。
 そうであるなら、「含めて」は不思議な命令形なのである。眼を含めることを命じているのである。眼ら、であるから、それは眼だけではなく、肉体のあらゆる感覚を、ということかもしれない。
 あらゆる感覚を--というときの「あらゆる」は「一体感」そのものである。

 --野村は私がここで書いたようなことを書いていないかもしれない。私が書いたことはすべて「誤読」であるかもしれない。
 そうであっても、私はまったく気にしない。
 詩は「意味」ではないし、私が詩を読む(本を読む)のは、作者が何を感じているか、何を考えたかを知るためでもない。作者のことばに触発されて、私のことばがかってに動いていく--そのことが楽しくて、私は本を読む。「誤読」をするために、本を読む。




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