フォレスト・ガンダー「アフター・ハギワラ」ほか | 詩はどこにあるか

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フォレスト・ガンダー「アフター・ハギワラ」ほか(吉田恭子ほか訳)(「現代詩手帖」2010年10月号)

 詩に男女はない。ことばの運動に男女はない。--そう「頭」ではわかっていても、なかなかそのとおりには「肉体」が反応しない。男を感じたり、女を感じたりする。そしてときには、この男、女ぽい(この女、男っぽい)と感じ、それが「嫌い」ではなく「好き」と感じてしまったりするので、ちょっと面倒くさい。面倒くさい、というのは、つまり、自分がわからなくなるということである。あれ、私は男が好きなのかなあ、女が好きなのかなあ、区別がなくごちゃごちゃになったものが好きなのかなあ。そのくせ、その面倒くさいことから出発して、少しずつ私自身のことばを動かしていくとき、その面倒くさいことをするのが--あ、こういう面倒くさいことをするのが、けっこうおもしろいなあ、と思うのである。何がなんだかわからないまま、ともかく書いてみよう。ことばがどこまで動いていくか追いかけてみよう、と思う瞬間--面倒だけれど、好きだなあ。

 ちょっと変なことを書いてしまったが、ブログの読者、blue snow さんからヴォイスラヴ・カラノヴィッチの詩の感想に対するコメントをいただいて、詩人の性とことばについて考えたのである。日本人の場合、たいてい名前から男女の区別がつく。そして、ついつい、この詩は男性が書いた、この詩は女性が書いたと無意識に判断し、その判断の上に立って感想を書いてしまう。私は実際にあったことがある詩人はほとんどいないし、その性別を確認したことがあるかと言われれば、そのうちの誰一人の正確な性別を判断する証拠(?)もないのだけれど、まあ、そうなんだろうと思っている。
 いいかげんだし、偏見のかたりと言われれば、たしかにそうなんだけれど。
 外国人の場合、名前から性別はまったくわからないのだけれど、それでもなぜかこれは男、これは女の詩と思って読むのだが、そういう場合でも、あれ、この男は男? 女っぽくないかなあ。女? それにしては男っぽいなあ、と思ったりする。
 フォレスト・ガンダーは、男だろう。(「フォレスト・ガンプ」という映画があって、この主演はトム・ハンクスという男優であった。アカデミー賞の主演男優賞をとっているから、男だろう。)その男、フォレスト・ガンダーの「アフター・ハギワラ」がおもしろい。

子供が湖から引きずり出された。
同級生らは互いの耳に囁いた。
同級生らは互いの奇妙な貝の形をした耳に
猥らな話を囁いた。
風がおさまる。
ベッドに横たわる女がひとり。
女の顔には、
眼がふたつ。
                         (吉田恭子訳)

 萩原朔太郎を意識したしだろうか。前半の4行に、何がどうしてとは言えないのだけれど、朔太郎の「におい」を感じた。耳、貝、というこだわりに、朔太郎を感じた。
 詩は、溺死した同級生が湖から引き揚げられるのを目撃した子供たちの、子供特有の残酷さを一瞬のうちに切り取った美しさがある。前半に、それを強く感じた。
 この部分は--私にとっては、朔太郎(男)のことばの運動である。
 ところが、後半の4行が微妙である。
 ヤォレスト・ガンダーという署名がなかったら、私は、この詩を男の書いた詩と感じただろうか。女が書いたと感じただろうか。

女の顔には、
眼がふたつ。

 この2行が特にわからない。たぶん、自分の子供が溺死したということを知らされた(遠くでみんなが騒いでいる)女の描写だろう。動かない。動けない。虚空をみつめている。泣きたいけれど、泣けない。もうこころのなかで泣いてしまっているので涙も出ない。その女の顔がくっきりと見える。
 女の耳は描写されていないが、女は子供たちの囁きをしっかり聞いている。それは囁きではなく、大声となって耳の中で響いている。だから、それを遮るように、眼を開いている。虚空を見ることで、聴覚を拒絶しようとしている。虚空を見ることで、現実を見ることを拒絶している。
 そうした状態を

眼がふたつ。

 ただ、それだけで言ってしまう。この強さは、私には女特有のものに見える。前半の「耳」が「話」というものによって、さらにその話が「猥らな」という修飾語をもつことによって具体化されるのは--これは男の文体である。男の文体は、どうしても何かをつけくわえることで成立するのだ。ことばにことばをつけくわえることで動くのだ。女の文体は、むしろ、剥ぎ取る。存在からあらゆることばを剥ぎ取り、存在そのものになる。そして、自分をだしてしまう。さらけ出してしまう。
 そういう剥き出しのものに、私は一瞬たじろぐが、でもスケベだから、それがいい、とも思ってしまう。
 「眼がふたつ。」には、そういう感じがある。
 「耳」の描写もいいけれど、この「眼」の描写はいいなあ。すごいなあ、と思う。この詩人は女かな、と思う。

 一方、「序曲」。

たいてい僕が想うのは君の躰
僕の指を流れ抜けていった
地下で赫(あか)く燃える河のように

地下で赫く燃える河のように
その河には時も言語もなく
その融けた灼熱の赫(かがや)きから逃れるすべも、音楽もまるでなく

その河には時も言語もなく
生成の理論と実践だけが
河口の赫(かがや)きを放出する
                           (梶原照子訳)

 これは男の文体である。「僕」ということばがあるから、そういうのではない。
 前の連の1行を取り込みながら次の連を構成する。こういう詩の文体(形式)に男・女の区別はないはずなのだが、男を感じさせる。あるもの踏み台にしてことばを飛躍させる。前にあるものを利用しながら、それを叩きこわし、その叩きこわしたものがさらに叩きこわされる。そうやって、一種の弁証法を展開する。
 この、暴力は、きわめて男くさい。
 全体の構造だけではなく、1連だけに絞った方が「男」の明確にできるかもしれない。
 「僕が想うのは君の躰」と書いた後、「僕の指を流れ抜けていった」と書く。「僕」は「僕の指」と具体的に言いなおされることで、「君の躰」は「肌」(裸の肉体)から別のことばに書き換えられる。「地下で赫く燃える河のように」。このとき、男はもう「肌(裸)」を見ていない。それを叩きこわして、それ以上のものを見ようとしている。「地下で」ということばが象徴的だが、それは目では見えないものである。目で見えないものを見るために、「もの」(存在、いのち)を叩きこわし、動いていくのである。
 そして生まれるのが2連目。
 「時」「言語」「赫き」「音楽」。おおおい。「指」で触れられないものばかりじゃないか。そんなものは「指を流れ抜けていった」と言えるのか。1連目の「指」はなんのために指なんだ。「君の躰」に触れたのか? ほんとうに触れようとしたのか? そんな意地悪が言いたくなってしまう。
 こんなことばの運動は、どうしたって男のものだねえ。

現代詩手帖 2010年 10月号 [雑誌]
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