ミステリー仕立ての映画だが、ほんとうは恋愛映画になる。アメリカ映画の安直さからはるかにかけはなれた、ヨーロッパの濃密なにおいが漂う映画だ。あ、アルゼンチン(南米)はヨーロッパなのだ、と感じた。
それにしても、この映画を若いときに見なくてよかったなあ、とつくづく思った。若いときは、きっと何をやっているかわからない。男と女の、目の表情(目の演技)がわからない、と思う。「人間の本質は変わらない」ということも、たぶん「台詞」としては理解できても実感できないと思う。
すばらしいシーンはいろいろあるが、ソレダ・ビジャルが犯人と向き合った瞬間、「あ、この男が犯人だ」とわかるシーンがすばらしい。女検事のブラウスのボタンが一個なくなっていて、そこから胸元が見える。その胸元を犯人が特有の目付きで見る。その目を見て女検事は直感的に犯人だと気づく。そして挑発する。「こんな男にレイプができるはずがない」。それに反発し、男は自分が犯人だと言ってしまう。このときのソレダ・ビジャルの目の演技、それにつづく女のしぐさの演技がすばらしい。
リカルド・ダリンは犯人の男の、胸元を見る目付きの変化に気づかず、それを見逃すのだが、その女と男の目の対比(その演技のあり方)にも非常に驚かされる。役者の目の大きさがものをいっている。
服役後、釈放された犯人とリカルド・ダリン、ソレダ・ビジャミルがエレベーターで乗り合わせるシーンの緊張もすごい。ラストシーンの、ソレダ・ビジャミルの、ああ、やっと……という感じで、よろこびにあふれる目の演技もすばらしい。
リカルド・ダリン、ソレダ・ビジャミルをわきから支えるアルコール中毒事務員も非常におもしろい。彼に「人間の本質は変わらない」という、この映画のテーマを語らせるのもおもしろい。
彼がリカルド・ダリンと勘違いされて暗殺されるシーンの、その演技がまた実にいい。台詞はない。動きの一つ一つに意味があり、それが的確に観客につたわってくる。リカルド・ダリンの写真を倒していく動きなど、暗殺者のことも理解していれば、自分が何をしなければいけないかもきちんと理解している。アルコール中毒なのに、自分に何ができ、何をしなければならないかを的確に判断し、それをやってのける。あ、彼もまた「本質」を貫く人間なのだ。
どうしてもアップの演技に目が行ってしまうが、サッカー場のシーンも、短いのだけれど、濃密である。緊迫感がある。長回しと、手振れの乱れとを生かして、臨場感がある。あ、もう一度、このシーンをやってほしいなあ、見なおしたいなあと思う。もしかすると、サッカー場のシーンがこの映画の中ではいちばんいいかもしれない。
伏線もていねいに工夫されていて、それが映画に奥行きを与えている。タイプライターのAが印字できないというエピソードと、最後に手書きのメモにAをつけくわえることでことばがかわるというエピソードもおもしろい。ただし、この「Terro(r)」(怖い)から「TE AMO」(愛してる)への変化は、手書きスペイン語を見慣れていない人にはわかりにくいかもしれない。小文字「rr」は筆記体では大文字の「M」の右上に短い髭がついているように見える。そのことを利用して、「Terro(r)」が「TE AMO」にかわるのである。「A」が「rr」を「M」に変える。「文脈」が「文字」をちがったものに見せてしまうのである。(これは、ある意味では、この映画のテーマであるかもしれない。)「怖い」も正確には「Terror」なのだが、夜、寝ていて思い付いたメモなので最後の「r」がない。「r」がなくても、スペイン語圏のひとなら、それは「怖い」であることがわかる。
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「Terro(r)」から「TE AMO」への変化。これは、「rr」を「M」と「誤読」することによって成り立っている。「A」をつけくわえることによって「rr」が「M」と「誤読」される。そして、その「誤読」こそが、リカルド・ダリンの「本質」であり、ソレダ・ビジャミルの「本質」でもある。つまり、「読みたかったもの」である。「Terro(r)」はリカルド・ダリが書いたものであるが、その文字をリカルド・ダリンも読んでいる。そのことに、深い意味がある。
何か(何であれ)、あらゆるできごとは「読む」だけではだめなのだ。だれもが「読んでいる」。読んだ上に、そこに自分自身の「本質」をつけくわえる。「A」をつけくわえるように。そうすると、あらゆるものが「誤読」され、その「誤読」のなかに、ことばにならなかったものがはっきりと浮かび上がる。
この映画では、その「本質」を「パッション」と呼んでいた。
だれもが、どうしようもない「パッション」をもっている。なぜ、それが必要なのか、だれにもわからない。ただ、どうしようもなく、それが好きなのだ。それは「本能」なのだ。
これが恋の場合は「直感」ということになるかもしれない。
だれもが「直感」で恋をする。あとから、あれこれ理由をつけくわえる。「直感」で恋をしながら、恋されてることを知りながら、25年間も回り道をすることもある。「誤読」によって何かを壊す--その一瞬が、それこそ怖くてできないのだ。
その怖い何かを克服するのに25年かかった--という映画でもあるかもしれない。
他人の(他の登場人物の)、変わることのない「パッション」に触れ、自分自身のなかにある「パッション」を自覚し、それを、いま、そこにあるものにつけくわえる。そのと、世界が動く。
とてもおもしろいテーマだ。
