林立人「A Tea Bag 」は何が書いてあるかわからない。わからないのだけれど、読んでしまう。最後に(続く)という文字がぽつんとおかれているので、詩の全部ではないのだな、とわかる--わかると書いたが、ほんとうかなあ。ほんとに続きがあるのかなあ。なんともしれない。詩なのだから(?)、どこでおわっても関係ない--というと林に失礼かもしれないけれど、私は、続きが読みたいという気持ちと、続きがなくてもいいという気持ちのどちらが強いのか、よくわからない。なんといえばいいのだろう、続くものは続くし、続かないものは続かないのだが、その「続く」ということは、自然発生的なものなのか、あるいは「続く」ではなく「続ける」ということが「続く」を引き起こしてしまうのか、それがわからないから、続きが読みたいのか、それともこのままでいいのかわからないのかもしれない。
というようなことが、なぜか気になったのはどうしてだろう。詩を読み返してみると、次の行がある。
寝床の中で歩いていたねむりの続きみたいに歩く
2連目の書き出しに近い部分なのだが「続く」ということばが出てくる。この文章(?)変だよねえ。変だけれど、奇妙に「わかった」ような部分、「あ、そういうことか」と思う部分がある。正確には(?)、というか、「学校教科書的」には、
寝床の中で、つまり眠っていて、その夢の中で歩いていたのだが、そのときの歩行の「つづき」みたいに歩く
ということかもしれない。「ねむり」と「歩く」は別のものだから、「続く」という具合にはならない。「続く」ためには、その「前」と「後ろ」が同じものでないと続かない。「歩いていた」続きみたいに「歩く」でないと、変である。
で、あるはずだ。
ところが、そんなふうに「学校教科書」的だと、おもしろくない。
それに「寝床の中で歩いていた」のは「わたし」ではなく、書いてあるとおりに「ねむり」かもしれない。「わたし」が主語ではなく、「ねむり」が「主語」。そして、いま「続き」みたいに歩いているのは、やはり「ねむり」なのだ。
なんて、無理なことを考えながら、それも、やっぱりおもしろくないなあ。
私がおもしろいと感じたのは、「学校教科書」みたいに主語、述語がきちんとしていなくて、どこかで「ねむり」と「歩いていた(歩行)」がとけあってしまって、区別がつかないまま、「歩く」という現在のなかにつながってしまうことなのだ。
何が「ねむり」と「歩行(あるいは、歩いていた夢、というべきか)」を融合させるのか。別のもので呼ばれているものが、なぜ、30字たらずのことばのなかで、まぜこぜになってしまうのか。なぜ、別の名前で呼ばれていたものが「続き」になってしまうのか--それがわかったようで、わからない--それがおもしろいのだ。
正確に書こうとすればするほど、書きたいことが遠くなり、不正確に書いた方が(?)逆に「間違い」のなかに、ことばでは書き表すことのできない何かを浮かび上がらせてしまう。そういうことなのかもしれない。
「続き」(続く)というのは、先行しているもの(ことば)が「続く」のではないのだ。どんなことばでも「続ける」ことによって「続く」のだ。「続く」「続ける」ではなく、「つなげる」なのかもしれない。
ことばは「つなげる」ことによって、続く。
きっと、そうなのだろう。
寝床の中で歩いていたねむりの続きみたいに歩く 十数歩と
行ったところで置き捨てられた段ボールの箱を見つけて腰をおろす
橋は目の前だがこの辺りで息を整えていると
こみ上げてくるものがある しつこい嘔気が喉元にきて居座る
(谷内注・「嘔気」の「気」を林は正字で書いている)
とても変なことばの繋がりである。「十数歩と/行ったところで」。改行があるからそのまま繋いではいけないのだろうけれど、意味的には、「十数歩/行ったところで」だろう。その改行というか、意識の飛躍の踏み台に「と」ということばがつかわれている。「と」をこんなふうにして、つかう? 私はつかわない。だから、そこで一瞬つまずくのだが、ことばが繋げられてしまうと、そこに「続き」を読みとってしまう。そして、まあ、いいか、と思ってしまう。何か「間違い」というか、納得できないものを内部にかかえながら、どこかへずれていく--「と」から始まっているどこかへずれていくと感じ、あ、これはほんとうは「歩く」という行為が「続いている」のではなく、「と」のなかにあるもの、「わたし」の内部にある何かこそが「続いている」のかもしれないとも思うのだ。
そして、そんなふうにして読んでいくと、
置き捨てられた段ボールの箱を見つけて腰をおろす
という何気ないことばも、とても変である。「置き捨てられた」って、どうしてわかる? というか、段ボールを見つけて腰をおろすのはわかるが、その段ボールを、あらかじめ「置き捨てられた」ものとして了解しているというのは、変でしょ? 段ボールを見つけるが最初の事実であって、それが「置き捨てられた」ものであるかどうかは、段ボールを見つけたあとの意識だ。もしかすると「腰をおろす」という行為のあとかもしれない。行動と意識の関係が、ここでは、実は「現実どおり」ではない。「現実どおり」ではないけれど、こういうことを、私たちはしょっちゅうやっている。
段ボールを見つけて腰をおろし、段ボールは置き捨てられたものだと感じた
段ボールを見つけ、置き捨てられたものだと思い、腰をおろす
とも書くことができるのだけれど、「置き捨てられた段ボールの箱を見つけて腰をおろす」を自然な(?)文章だと感じ、それに納得する。
ことばというのは、何か、変な法則で動いているのだ。
「学校教科書」の文体が「正しい」(合理的?)とは、必ずしも言えないのだ。
そういうことを、林の不思議な文体は教えてくれる。
橋は目の前だがこの辺りで息を整えていると
の「この辺り」の「この」のつかい方も、あ、そうかとは思うけれど、変である。「この」というくらいだから、その「この」は先立つことばのなかにないと、「この」の意味をなさない。「学校教科書」的には。しかし、その「学校教科書」を逸脱している部分に、あ、ここを「この辺り」と言いたい気持ちがあるのだ、何かが「この」につながっているのだと感じる。「歩いていたねむりの続きみたいに」何か、違ったものが「繋がっている」と感じるのだ。
こういう不思議さが、延々と「続いて」いく。それは、どこで「終わり」になるか、よそうがつかない。どこまでも「続く」でかまわない。作品の文末の(続く)は、ようするに「終わり」がないというだけのことであって、そこで中断しても、やはり「続く」なのだと気がつく。
考えてみれば、意識なんて「続く」ではなく、「続ける」だけなのである。
そして、そんなふうに考えると、樋口伸子「うまおいかけて」も、小柳玲子「ヘイ叔父」も、繋げなくてもいいものを繋ぐことによって、意識を「続いている」ようにみせていることがわかる。
樋口の作品の方が説明が簡単なので樋口を例にとれば、
うまがおいかけてくるんです
え うまが?
はい 馬がですね まいあさまいばん
ほう 毎朝毎晩 どこから?
そりゃ うしろからですよ へんですか?
いや へんじゃないけど
あーんして 大きな声を出して
馬の声をだすんですか
いや あなたの声ですよ
まあ いやらしいせんせ
ここでは、「そんなもの、続けるなよ」ということが「繋げられる」。医者(せんせ)に「声を出して」と言われ、「馬の声をだすんですか」なんて、何言ってるんですか、「いや あなたの声ですよ」に決まってるでしょ? でも、それに「まあ いやらしいせんせ」と、またまた変なものが「繋げられる」。
そのとき。
ほら、そこで起きていること(医師の診断)ではなく、別なものが急にみえてくるでしょ? すけべな私の実感でいうと、女(たぶん)のセックスのときの声、あ、セックスのとききっと声をだすんだなあ、そのことを女は思い出して「いらやしい」と想像が暴走してるんだなあ、というようなことが、ふいに見えてくる。
これは、医師の診断の「本筋」ではなく、いわば、横道、逸脱、暴走--なのだけれど、そこに「本筋」ではとらえることのできない「本質」のようなものが、ふいに見えてくる。
こういことって、おもしろい。
詩は、ことばを暴走させることで、暴走しないことばには見えないことを見せてしまう--そんなふうにしてことばを「繋げ」、別なものを「いま」の「続き」にしてしまうことかもしれない、と思った。
