高橋睦郎『百枕』(23) | 詩はどこにあるか

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高橋睦郎『百枕』(23)(書肆山田りぶるどるしおる、2010年07月10日発行)

 「枕売--五月」。

夏始なりたきものに枕売

 「枕売」という商売があるとは知らなかった。枕だけ売り歩いて、それで商売になるんだろうか--と思っていたら、高橋はエッセイでいろいろ書いている。枕と色事はつきもので、色も売り歩いた、と。
 で、枕売りなりたいのは、単なるすけべごごろから?
 どうも違う気がする。

枕売さぞ青葉さす若衆かな

 「青葉さす」が美しい。そして、それが美しいのは「若衆」が美しいからだ。高橋の、発句の人物は、枕を売りながら色も売るということがしたいというより、「青葉さす」と形容されるような若衆にこそなりたいのだろう。
 そういう、自己を超える夢があるからこそ、ここでの句は「荘子」の、荘周と蝶の夢にもつながっていく。「枕という人類が産んだ最も奇怪(きっかい)な道具をあいだに置いて、荘周が蝶になることと蝶が荘周になるとこととは、一つことではあるまいか。」
 枕売が「青葉さす若衆」と想像することは、自分自身がその「青葉さす若衆」となって枕を売り歩くことそのものなのだ。

枕買うてまづ試みん一昼寝

風涼し枕と二人寝んとこそ

 そして、そういう夢を見るのは、また「枕を買う」人物にもなることでもある。枕を売るひと、枕を買うひと--それは「ひとつ」である。そこでは枕の売り買いだけではなく、それにつづくすべてのことが夢見られている。
 「昼寝」というより、昼日中、明るい光の中で見る「目覚めている意識の夢」、つまり明確な願望である。
 このさっぱりした感じはいいなあ。



 反句、

荘周の枕も薄蚊吐く頃ぞ

 「薄蚊」とはなんだろう。私には見当がつかない。「うすか」と読むのだろうか。
 わからないままこんなことを書いていいのかどうか。
 蚊は不思議で、どこからともなくあらわれる。衣服や、寝具や、何やかやの「ひだ」のようなところにひそんでいるのだろうか。隠れているものが、ふいにあらわれてくる。そして、そのうるさい音に、現実を知らされる。
 荘周の蝶の夢は美しいが、それとは対照的な、うるさい現実の蚊--そのとりあわせに、俳諧の不思議なおもしろさを感じる。荘周の、文学的な夢を笑い飛ばす(破壊する)現実の「俗」。
 高橋は、「青葉さす」若衆になりたいと思った人物を、からりと笑っているのかもしれない。




柵のむこう
高橋 睦郎
不識書院

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