誰も書かなかった西脇順三郎(131 ) | 詩はどこにあるか

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誰も書かなかった西脇順三郎(131 )

 「誰も書かなかった西脇順三郎」というタイトルから離れてしまうのだけれど、きょうは、「他人が書いている西脇順三郎」。
 「幻影」というのは「西脇順三郎を偲ぶ会」の会報である。その27号。(2010年05月31日発行)澤正宏の「『ギリシア的抒情詩』の奥深さ」。2009年06月06日の記念講演が採録されている。
 とても驚いた。「コリコスの歌」という詩を引用しながら、澤は語る。

 浮き上がれ、ミュウズよ。
 汝は最近あまり深くポエジイの中にもぐつてゐる。
 汝の吹く音楽はアドビス人には聞こえない。
 汝の喉のカーブはアドビス人の心臓になるやうに。

 何かぜんぜんわかりませんね。だけれども、「コリコスの歌」というタイトルに注目しますと、資料に写真がありますが、「コリコスの歌」というタイトルは、実はそこに載せている『イメージズ』という、これはリチャード・オールディントンという人が書いた詩集ですが、そのタイトルをもらってきているわけです。

 澤は、簡単に言うと西脇のことばの「出典」を全部調べ上げようとしている。そして、実際、それを調べ上げているのである。
 書き出しの「浮き上がれ、ミュウズよ。」はH・D(ヒルダー・ドゥーリトル)という人の「OREAD」の「Whirl up, sea --」を借用したものである。そしてそれは、この詩がイメージの詩であることを語っている。「アドビス人」の「アドビス」はヘレスポントス海峡近くのトルコの町であり、「田舎の人」という「意味」を持っている。そして、その「田舎の人」というのは「日本人」である。
 そういうことを調べ上げた上で、澤は、「コリコスの歌」で西脇は、イメージの豊かな詩、新しい日本の詩を書くことを宣言している。その新しい詩は、藤村の感覚に親しんでいる日本人にはわからない。--そう宣言している、と解説している。

 なるほどねえ。

 この「なるほどねえ」という感想が、澤のことばを読めば読むほど、くりかえし、私の中から沸き上がってくる。西脇の書いていることばの「意味」がくっきりと見えてくる。こんなにくっきりとみえてくるということは、澤の解説が「正解」ということの証なのだろうと思う。
 無学の私は、澤のことばに対して、どんな反論もできない。
 ただただ、よくまあ、こんなに調べてくるものだなあ、と感心する。

 で、感心しておきながら、こんなことを書くのは変なのかもしれないけれど。澤の楽しみって、何?
 たぶん、ことばの「意味」を突き止めることなんだね。
 「意味」を突き止めるために、ひとつひとつ、ことばの「出典」をつきつめる。「出典」が描き出す「ことばの地図」によって、「ことばの街」を復元する。「意味」という「時空間」を再現する。あるいは補強する--といえばいいのかな? 
 あ、たいへんだなあ。
 澤は何度も西脇には追い付けない。全容を解明できない--と書いているけれど、その全容を解明できないと知ること、認識すること、その認識の証拠として「わかる」ことを正確に「わかる」と明記する--それが、たぶん、澤の楽しみなのかもしれない。
 西脇にはたどりつけないんだけれど、私はここまでたどってみました、と言えることが澤の楽しみなんだろうなあ。
 あ、すごいなあ。
 でも、とても変な気持ちになる。

 西脇の詩が、これ以上ないくらい「正解」として分析され、「意味」が特定されているのに、澤のことばを読んだあとでは、西脇の詩がそんなにおもしろいとは感じられないのだ。西脇がやろうとしていることはとてもよくわかるけれど、なんといえばいいのかなあ、ある詩人がやろうとしいること(本意)を正しく認識したり、そこに書いてあることを正しく把握することが、そんなに大切なのかなあ、と疑問に感じてしまう。
 あ、正しい(?)いいかたではないね、これは。
 簡単に言うと、澤のことばを読むと、澤が西脇のことばの「意味」を特定し、(特定でき)、そのことをとても喜んでいるということは、とてもよくわかる。あ、ここまで調べ上げ、「正解」にたどりついた--うれしい。その「うれしい」という喜びは、とてもよくわかる。
 でも、その喜びに、西脇の詩の楽しさが隠されてしまっている。澤の喜びが、西脇の詩を上回っている。
 澤は西脇に追い付けない、と書くけれど。

 追い付く必要ってあるの?

 私は、そこに疑問を感じてしまう。だれかに追い付き、追い越す必要って、あるの? 文学というのは、たしかに、それを書いた人の思想(感情)を正しく知る必要があるのかもしれないけれど、正しいことが「追い付く」こと?

 これは私の「自己弁護」になってしまうから、書いてはいけないことなのかもしれないけれど。
 私は「正解」にたどりつくよりも、あ、私はまた間違ってしまった。書いても書いても間違ったことしか書けないなあ。なぜ、こんな間違いへ間違いへと誘うことばを他人は書くのかなあ。そして、そのことばに誘われて、間違えてしまうことが、なぜ、こんなに楽しんだろう、と思う人間なのだ。
 うまく言えないけれど、こどもが、「してはいけません」といわれると、ついついその禁じられたことをしてしまうように、私は、何か間違ったこと、悪いことをしたい。自分自身を裏切るようなことがしてみたいのかもしれない。好きなひとについて行くと、「道」を踏み外してしまう。ようするに、自分の知らなかったことを、そしてしてはいけないということをしてしまい、してしまったあとで、でも、あれは自分の意思ではなくて、悪い友達に誘われたからそうなってしまった--そんなふうに、ずるい弁解をしたいのかもしれない。
 「間違い」のなかに、何か、自分を逸脱していくもの、自分のコントロールできないなにかがある--それが楽しいのだと思う。

 「正解」は、とても窮屈なのだ。

 で、ここで、こんな飛躍をすると、岡井隆に叱られるかもしれないけれど--岡井隆の『注解する者』、あの詩集の「注解」は「正解」ではあるんだろうけれど、生活というか日常にまみれている、暮らしの汚れが染み込んでいる。そのために、間違った美しさ、不純な美しさに達している。それがいいんだよなあ、と思うのだ。
 澤のことばには「間違い」がない。あるかもしれないけれど、素人には指摘できる「間違い」がない。岡井のことばには、こんな読み方は失礼かもしれないけれど、あ、奥さんをこんなふうにからかうのか、聴講生の質問にこんな具合にいらいらするのか、かわいいねえ、なんて俗っぽい感想を差し挟むことができ、そういう瞬間に、「好き」という気持ちが生まれ、積み重なって「大好き」になる。人を好きになるというのは、自分がどうなってもいいと思うこと、とんでもない「間違い」の一歩なのだけれど、その一歩が、澤のことばに対しては踏み出せないなあ。
 「間違っています。正解は、これです」と叱られそうで……。
 これが岡井なら(会ったことはないのだけれど)、「あんた、ばかですねえ」とこつんとたたかれる。そのとき、あ、岡井の手が自分の頭に触ってくれた、覚えていたいからシャンプーするのはやめよう、なんて、とんでもないことを考えてしまうんだけれどなあ。



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沢 正宏
双文社出版

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