山本まこと『当座の光の中で』を読んでいると、時代を勘違いしそうになる。40―50年ほどさかのぼった気持ちになる。「現在」を感じないのだ。
たとえば「呼ぶ」。
鏡の中の藁が燃え
焼け出された私はきみを呼ぶ
それがなぜきみでなければならないのか
この3行の中に出てくる具体的な「もの」は「鏡」と「藁」である。「鏡」は文学の中では、ものではなく、「流通言語」(意味にまみれた象徴)になっている。そして「藁」はどうかといえば、これ、何?である。
藁って、見たことある?
私は農家育ちだから、昔は藁を見た。縄をなったことがある。蓆をおったこともある。草履は作る前にあきらめた。渋柿の渋を抜くために、樽に藁をつめ、お湯をはって、そのなかに柿を埋め込んだことはある。――これは全部昔のことである。今は、めったに見ない。正月前にスーパーなどへゆくと正月飾り(しめ縄)があって、あ、藁が使われている、と思うくらいで、日常的に藁を見ることなどない。
だから、「鏡の中の藁が燃え」と言われても、いったい、どこにある藁?とびっくりしてしまう。山本は農家の納屋にでも住んでいるのか。それならそれでもいいが、では、2連目に出てくる次のことばと、どうつながるのか。
殺(や)られたら殺(や)り返す他者なき街の惨劇に耐えながら
藁のある世界と「街」が結びつかない。「惨劇」が結びつかない。「役立たずの狂気なんかは迂回する」というかっこいいことばもあるけれど、どうも、ことばがかっこよさだけで呼び合っている気がする。
しかも。
そのかっこよさが、40-50年前のかっこよさなのである。藤圭子や西田佐知子の生きていた世界に通じるかっこよさなのである。彼女達が具現化する「肉体」(藁、のような存在感)は、弱いということで、不思議な「精神性」を獲得していた。精神的なことばではなく、弱い、敗者の雰囲気が、ことばのなかに「精神(意地?)」を漂わせ、その「意地」が歌を聴く者を支えた。そのときに、そういう歌謡曲と対峙するような形ではやっていた「現代詩」のかっこよさである。
当時の「現代詩」には、「他者なき街の惨劇」というような、「それは具体的にはなんのこと?」と問い返したくなるようなことばがあふれていた。当時は、そのことばに対して、「それは具体的にはなんのこと?」とは問い返さなかった。それは、「藁」が当時の農村の現実だったように、当時の「都会」の現実だった。ただし、「まだ実現されていない現実」ではあったが。言い換えると、40-50年前、まだ「都会」で起きていることをことばにする方法はなかった。そして、ことばにならないことをことばにするために、無理やり「他者なき街の惨劇」というようなことばがつかわれたのだ。「他者」も「不在(なき)」も「街」も「惨劇」も、これから「肉体」が体験していく「もの」だった。精神のなかの「実在」だった。そんなふうに、精神のなかにあるものを「実在させる」語法が、「藁」と同様にリアルだった。
でも、いまは、そんな時代じゃないね。
じゃ、どんな時代?と問われれば、それとは違う時代という否定形でしかいえないのだけれど。
そして、否定形で何かを語るかわりに、私は、詩を読む。詩人たちが、ことばに負荷をかけながら、ことばの奥にあるものを無理やり絞り出す力技に出合いたくて詩を読む。その、わざと捻じ曲げられた力技の、その力のなかに「現在」があると信じているので。
それは、
クソッ、炎上する塔の尖端をかすめる荒い雪のような性とは何だ!
まだ足りぬ欠如のために犬の肉を喰らうのか
というような「力技」とは関係がない。
山本のことばの「力技」は、どうにも古臭い。「塔」が有効だったのは「党」が輝きを持っていた1960年代である。その当時は、まだ都会に雪は頻繁に降り、犬の肉を喰うしかない野蛮の輝きがあった。今じゃ、人間に食われるかなんて考えている犬は一匹もいない。のうのうと、「早くおやつ持ってきてよ、待っているのがわからないの?」と飼い主を非難する時代である。
「現実」と向き合っていないことばは、かっこよくみえても、むなしい。