財部鳥子「由布島の道行き」は「島だより」という小詩集(?)の1篇。
花を付けた水牛の車に乗って引き潮の浅瀬を渡る
というはかりごとに乗って
まゆちゃんよ 走れ と三線を弾く牛飼いは
緩やかな島うたを唄う 揺られながら私たちも唄う
というはかりごとに乗って
可憐な水牛と記念写真を撮ろう
というはかりごとに乗って
私たちはカメラの前でポーズしている
涎の長い水牛の「まゆ」という名札に涙をこぼす
旅をする。そのとき、私たちは新しい何かと出合う。それは風景であったり、習慣であったり、食べ物だったり、ことばだったりする。そして、その「出合い」はある程度予測できるというか、予定して出発するものである。ところが、思いもかけないものに出合うことがある。
財部は、水牛の引く車に乗るということまでは考えていた。その車のなかで案内人が島歌を歌い、それにあわせて財部も唄う--ということもある程度夢見ていたかもしれない。けれど、その水牛に名前がついている、というとは考えなかっただろうと思う。
そういう考えもしなかったことに出合ったときの、不思議、それがとても自然に書かれている。「名札に涙をこぼす」というのは、なんといえばいいのだろう、涙をこぼしたいという「欲望」のようなものを誘う。
何にでも名前はある。車を引く水牛にだって、その水牛といっしょに暮らしているひとは「名前」をつける。「ちゃん」をつけて呼んだりもする。その、人間の、あまりにも自然な姿--自然過ぎて見えなかったものが、ふいに「名札」の向こうからあらわれてくる。
そのとき、涙は--涙は、きっと「郷愁」のようなものだ。なつかしい何かに触れるのだ。見知らぬ土地、見知らぬ旅で、自分が知っているもの、知りすぎているもの、知りすぎているために忘れてしまっているもの(忘れていても、肉体が覚えていて、無意識にやりすごしてしまうもの)が、ふいに、こころの底からわきあがってくる。
このよろこび。
それは、涙を流すしかない。泣きたい。ただ、泣きたい。
詩は、1行あきをはさんで、ふいに、別の世界へゆく。
私たちの茶色のイノセントに涙がこぼれる
思い出せば母の忌日だ
母の前世は「まゆ」だったと思うほど
私たちはやさしくなった
財部の母は「まゆ」という名前だったかもしれない。違うかもしれない。どっちでもいい。どっちにしろ、母には名前があった。水牛に「名前」があるように、母には名前があった。名前を思い出すということは、母をより、具体的に、しっかりと思い出すことである。そのときの、より具体的に、しっかり--ということが、「暮らし」の、「肉体」の、「いのち」のやさしさだ。
財部は、いま、それを、強い形で取り戻し、復元している。
*
稲葉真弓「夜の鳥図譜」、探しているものが見つからない--という詩である。
まだ 会えない鳥を探しに行く
机に広げた鳥図譜の
どこかに きっと 私の卵はあるのだ
「私の卵」ということばに、とても驚かされた。鳥図譜(図鑑のこと?)に私を探す--私はもしかするとツグミだったかもしれない、オオルリだったかもしれない、と思うのは、ありうることだと思う。
でも、卵?
その卵は、どっちだろう。稲葉が産んだ卵か、それとも稲葉が生まれてくる卵か。それはきっと真剣に考えはじめると、わからなくなる。たぶん、両方なのだ。稲葉が産み、そして稲葉が生まれてくる「卵」。
ひとはだれでも、そういう「暮らし」をしている。「肉体」をかかえている。
何かをすることは、その何かすることで、新しい「私」になることだ。何かをしはじめることは、何かを産むこと、そして何かをしつづけることは、何かになること。それは切り離せない。
そういう切り離せないものを、稲葉は「卵」というひとことでつかみとっている。
これは、(こういうことを書くといろんな批判が飛んできそうだけれど)、「産む性」としての女性だからこそ、つかみとれる実感なのだと思う。
この実感に、財部の作品について触れたとき書いた「郷愁」が、からんでくる--というのが、実は稲葉の作品である。多々し、私はその「郷愁」は「意味」としてはとてもよくわかったが、「意味」がわかるだけに「実感」がわからなかった。
「卵」は、私は「産む性」ではないので「実感」がわからないはずなのに--なぜか、どきりとするくらい「肉体」に響いてくるのを感じた。
「肉体」というのは、奥のところでは、男も女もかわらず、ただ、「いのち」である、ということかもしれない。
そして「肉体」が「いのち」であるというのは。
ちょっと、強引かなあ。
「肉体」が「いのち」であるというのは、「人間」も「水牛」もかわらない。(もちろん、「鳥」もかわらない。)「いのち」には、みんな、名前があって、それが「いのち」を結びつけるのだ。きっと。
だからね。というもの、またまた跳びすぎる飛躍なのではあるけれど。
だからね、稲葉の詩の後半も「フルートの/漏れては消えていった音階」というような抽象的なことばではなく、「出せなかったミの音」とか何か、「卵」のように、具体的な「名前」であれば、きっと「郷愁」が「抽象」ではなく、「具体的」なのもになり、「実感」としてあらわれてくるのだと思うのだが……。
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