谷本州子『ソシオグラム』の巻頭の「剪定」という作品に、はっと立ち止まった。
今年も仕事始めは
柿の木の剪定とする
脚立なしに実が取れる高さに
思いきって太い枝を切る
白い切り口に
寒風が立ち止まった
思い切り打ち当たってきたのに
枝がない
風は根元から切り口まで撫で上げ
振り返り 振り返り
立ち去った
この2連目。風に「こころ」はないのだが、谷本は「こころ」を描いている。風に「こころ」があると信じている。
そして、その「こころ」の動きが、またおもしろい。
ある、そう思っていたものが、ない--そのときの、一瞬の空白。
谷本と寒風のことを書いているのだが、それは谷本のこころの動きかもしれない。何かがあったはず。それがなくなっている。そういうものに直面したとき、立ち止まる。立ち止まって何かを考える。
「こころ」とは何かを思うということのなかにあるのではなく、「立ち止まる」ということのなかにこそあるのかもしれない。
「立ち止まる」その瞬間、それまで「こころ」を、あるいは私を動かしてきた「こころ」のなかのエネルギー、私のなかのエネルギーが一瞬行き場を失い、こころ、私の「肉体」のなかに、ダムの水がたまるようにたまってくる。
その「たまってくる」感じを抱きしめる。
いわゆる「現代詩」の、ことばの冒険はない。けれども、谷本のことばには、そういう「たまってくる」もの、何かを「ためる」だけの静かな力、「くらし」のなかでしっかり身につけてきた力というものがある。
「農具」の3連目。
毎日食べ頃になる
オクラ ピーマン トマト ナス
わたしの手は鋏になる
サトイモ サツマイモには
シャベルになる
ときには鎌にも鍬にもなる
笊にもなる
手は手である。けれど、状況によって鋏に、シャベルに、鎌に、鍬に、笊になる。そういうものに「なる」力を、谷本は「くらし」のなかでためてきたのだ。力をためてきたから、瞬間瞬間、そういうものに「なる」ことができる。
そして、それに「なる」ということを、いまは、自然にこなしているけれど、そこにいたるまでには何回もの「立ち止まる」体験があったに違いないのだ。
オクラを目の前にして、ピーマンを目の前にして、手はどんなふうに動くべきなのか。さっきまでシャベルをもっていた。鍬をもっていた。鎌をもっていた。でも、その動きではなく、もっとほかのものを「肉体」のなかからひきださないと、オクラやピーマンは取れない。--なんでもないことのようだけれど、それがなんでもないものになるためには、「くらし」が必要である。「くらし」を生きることが必要である。谷本は「くらし」をしっかり生き抜いている。
「家守」という作品も、とても好きである。全行。
風呂上がりに
扇子を半分折り畳んだまま扇ぎながら
流しの前の磨りガラスを見るのが
癖になっている
外から
小さな白い足の指先が張り付いている
いつまでも引き摺っていた
西の空の茜色が
残らず消された頃を見計らって
音もなくやってくる
すべりやすい時間をふんばっている
きょうもええ日やったなあ
扇子でガラス越しに足裏をノックする
家守はわたしの無事を知ると
闇に抱き取られていく
谷本は、一日の終わりを、そんなふうにして「立ち止まり」、見つめなおす。見つめなおしたものを、自分ではなく、自分のまわりにいっしょに生きているものに返して、返すことで、いま、ここにある「自然」そのものと一体になる。
ここには、「永遠」がある。私が私から解放されて、自然になる、その瞬間の永遠がある。
*
ところで、知っていますか? ガラス窓にはりついたヤモリ--その形。ガラス越しに見ると、ひらがなの「も」の字に見えます。その「も」の字は、私もヤモリも、トマトもナスも、寒風も春風も、そして鋏も鍬も鎌も、みんな「同じ」というときに、いくつものことばを結びつけた「も」そのものなのです。
山の中、田舎で育った私は、谷本のことばを読みながら、そんなことを思った。風呂のなかで、窓にはりついているヤモリを見ながらぼんやりと感じていたことを、いま、こうやって、思い出している。谷本の詩を読んだことによって、そのぼんやりしたものが、ことばになって動いていくのを感じた。
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