谷川俊太郎「午後おそく」は短い詩である。
かたむきかけた日の光は
かしの葉のふちをいろどり
そのまま芝生にとけこむようだ
応接間の回転窓は
雲の小さなすがたみとなり
気よわく夕日に対している
今日もいちにち快晴
かたむきかけた日の光が
だんだん影をのばしてゆく
注釈は、次のようになっている。
当時生活していた両親の家の庭と、応接室の情景を描いたほとんど写生と言っていい作である。「今日もいちにち快晴だ」などという一行はまるで中学生の日記のようで、こんな無防備な素直さは、もういまの私からは失われている。
私は、ちょっとうなってしまった。
谷川は「今日もいちにち快晴だ」を「中学生の日記のようで」「無防備な素直さ」がそこにある、と書いているのだが、
うーん、どこか素直? どこが無防備?
というよりも、「素直」「無防備」というなら、他の行だって、素直でしょ? いまの現代詩から見ると「無防備」というかなんというか、ことばが実にまっすぐに動いている。
その動きを「写生」と谷川は呼んでいる。たしかに写生だろうなあ、と思う。「写生」って、「対象」をことばでていねいに描写することだよね。意識とか思いとかで染め上げるのではなく、「意識」をはがして、対象そのものの状態を客観的に書く--それが「写生」だね。
そう思って、「今日もいちにち快晴だ」を読み直す。
そうすると、この1行だけが「写生」ではないことに気がつく。ここには「対象」がない。
たとえば、1行目「かたむきかけた日の光は」は「光」を写生している。光が「傾きかけている」ということが、そのことばからわかる。他の行も、書かれている対象が何であり、それがどんな状態かわかる。「写生」されていることがわかる。
「今日もいちにち快晴だ」の「対象」は何? 「今日」という「一日」。それが「快晴」と写生されている? あ、これは、「写生」とは言わないよね。
では、なんだろう。
「説明」だね。
「写生」と「説明」とはどう違うか。
あ、むずかしいねえ。でも、そうでもないかな……。「写生」は自分の目で見たことをことばにする。「説明」はそうではなくて、たぶん、他人が語っていることばを流用しておこなうことなのだ。「説明」には「自分のことば」を入れてはいけない。自分ことばを排除して、みんながつかっていることばをそのままつかう。そうすると「説明」になる。「今日もいちにち快晴」は谷川が独自に何かを描写(写生)したことばではなく、だれもが語っていることば、最初から他者によって共有されていることばなのだ。
こんなことば、大勢のひとによって最初から共有されていることばで書かれたもの--それを「中学生の日記」と呼び、「無防備な素直さ」と呼んでいるのだ。
それは、逆に言えば、「写生」とは「共有されていない・自分だけのことば」でおこなうものになる。
この詩に登場することばはどれもとても簡単で、それこそ中学生の書いたことばのようにも見えるけれど、「今日もいちにち快晴だ」以外の行には、たしかに谷川の「目」が動いている。谷川の「肉体」が動いている。
こんな無防備な素直さは、もういまの私からは失われている。
と谷川は書いているが、それは、私は昔は無防備で素直だったがいまは違うという「意味」ではないのだ。
私はもう、そんなふうに他人がつかっていることば、他人によって共有されている「流通言語」などでは詩は書いていない。そんなことはしない、と逆説的に言っているのである。
いまは、全部、谷川自身のことばで書いている。そう宣言しているのである。
いまの谷川は、とても素直である。正直である。(私は、この正直は「父の死」からはじまっている、と強く感じている。)その正直さは「中学生」のような正直さではなく、大人だけが身につけることのできる正直さである。素直さである。無防備さである。
いま、谷川は、「説明」ぬきで、ことばを動かしている。
*
「説明」ぬきで動かすことば--それを「写生」というなら、鷲谷峰雄「夜のキリン」も新しい「写生」といえるかもしれない。
キリンが走るとき
首から上は貧血だ
だから
ながい首は木の固さになって走る
走り終わっても
それらの貧血が立ったまま
ほぐれないので
キリンはときどき
木の表情をする
あ、いいなあ。おもしろいなあ、と思う。ここには鷲谷の「肉体」がきちんと反映されている。その結果として「個性」がでてきている。
そうだよなあ、あんなに長い足を一生懸命動かすには、血が全部足へ行ってしまうから、首なんかに血を廻しているひまはないなあ。貧血になるよなあ。走り終わったって、あんなに長い首の上まで血がもういちど上り詰めるには時間がかかる。それまで貧血状態だよなあ--私はキリンではないので、ほんとうのことはわからないが、鷲谷のことばをほんとうだと感じてしまう。納得してしまう。
もちろん、そんなことは「うそ」とわかっているのだけれど、わかっているからこそ、そのことばに騙され、ほんとうと感じる瞬間を楽しむことができる。
こういことばはいいなあ。
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