一戸恵多『遠い瞳』は、「現代詩」とは少し違うかもしれない。その違いを特徴的にあらわすことばが「アラン模様」という作品の中にある。アラン諸島の漁師たちの着るセーター。それについて書いた詩である。フリーマーケットで見かけた。
手に取ると
厚く太い毛糸の生地と模様の間から
無言の漁師たちの慟哭と
荒涼とした厳冬の漁港の様子が思い浮かぶ
ふつうなら考えたこともない
異国の殺伐とした風土の情景を
この一枚のセーターから会得しようとは思わないが
早く家に戻って
世界大百科事典の別巻として付いてきた
分厚い世界地図を広げてみたくなった
「この一枚のセーターから会得しようとは思わないが」という行は「現代詩」にはない美しさである。「現代詩」はことばの力を借りて(ことばを動かすことで)、いま、ここにないものを現前化させようとする。けれども、一戸はそういうことを「しようとは思わない」。ことばに無理をさせないのだ。
知らないことは、知らない。無理に想像力を動かしたりはしないのだ。そして、そこにあるもののなかで、世界を見つめなおすのだ。知っていることだけを、見つめなおすのだ。嘘をつかない(知らないことを、ことばでつくってしまわない)正直さが、一戸のことばを支えている。
「秋海棠」の終わりの2連。
さて この参拝が終わった後は
どうしようかしらんなどと
母と言葉を交わしていると
秋海棠の花弁が
明り取りの小窓の光を受けて
天界へと昇っていくのが見える
数分の後
また来てあげるからね と
最後の別れを告げている母の
俯き加減の背中に立つと
いつも その秋海棠が
頷き返しているような気がする
「天界」は一戸にとっては「位牌堂」と同じくらい具体的なものである。それは参拝をつづけることで「存在」が定着したものである。一戸ひとりが定着させた「存在」ではなく、一戸の暮らし(家族との生活)が積み重なって、そこに自然に形になったものだ。
そうした嘘のないことばと、「現実」というものがあって、「秋海棠が/頷き返している」という「現実」がそのまま、「天界」という夢としっかり結びつく。そして、「天界」をもう一度、しっかりとした「見える」ものにするのだ。
そうした「現実」を、気兼ねするように「気がする」と語るのも、一戸ならではの正直さだと思う。
「声明」の1連目。
マッチを一本擦ると
静かな早朝の部屋の中に
くすんだ音が生まれる
ボォ
この「くすんだ音が生まれる/ボォ」の耳のたしかさも、とても気持ちがいい。