監督 ニール・ブロムカンプ 出演 シャルト・コプリー、デヴィッド・ジェームズ、ジェイソン・コーブ
これは、ばかばかしいくらいおもしろい。「マーズ・アタック」以来のばかばかしさと、おもしろさである。いや、「マーズ・アタック」をしのいでいるかな?
映画というものは、嘘である。嘘を承知で観客は(私は)映画を見るのだが、その嘘の世界で、これは嘘ではありません、本物なんです、ということほどばかばかしく、こっけいなことはない。それを真剣にやるのだから、これはたまりませんねえ。
予告編には(ああ、この予告編には、何か賞をあげたいくらいだ)あったシーンがない。予告編ではエイリアンにインタビューしている。エイリアンの人権(?)に配慮して、顔にはモザイクなんかがかけてある。そのシーンがいつかいつかと待っているけれど、そんなシーンはない。この裏切りもいいなあ。傑作だなあ。
で、エイリアンへのインタビューという嘘のかわりに、なんと、人間へのインタビューがある。主人公の周辺の人々へインタビューしている。それが、まことに手際がよくて、おもしろい。長々と語らない。わかったような、わからないような、つまり、観客が勝手に想像できるような断片だけを語る。真実の断片。うーん、こにくらしいねえ。矛盾が出てこないうちに、さっさと切り上げて、観客にまかせてしまう。
この関係者へのインタビューという真実(という嘘)を接着剤にして、この映画は嘘のドキュメンタリーをつくっていくんですねえ。
舞台が南アフリカ、ヨハネスバーグというのもいいなあ。そこでエイリアンは、第9地区ということろに隔離されている。掘っ建て小屋だね。その周囲には、あやしげな店がたくさんあって、エイリアンを食い物にしている。ぼろもうけをしている。差別と、それを利用した商売。映画のなかでは、なんにも言わないからこそ、それがアパルトヘイトと重なる。そ、そうか。アパルトヘイトの時代、こんなふうな差別と暴力が平然とおこなわれていたんだろうなあ。
「シャッター・アイランド」では映画の最初に、人間は自分のつごうのいいように現実を曲解してとらえてしまう。--というノウガキが説明されるけれど、この映画は、そんなノウガキを言わない。言わないけど(言わないからこそ?)、観客は(私は)、この映画のエイリアンの状況を、かつての(そしていまでもたぶん残っている)アパルトヘイトの「現実」として見てしまう。
映画はつくりもの、嘘。嘘だからこそ、その嘘を思いついたヒント(現実)がどこかにあって、それがアパルトヘイトなのだ、と思ってしまう。
この錯覚を、ホンモノ(嘘)のインタビューが補強するんですねえ。ホンモノ(嘘)の肩書までつけた人間が登場してきて、「証言」する。
そうすると、ホンモノという嘘とホンモノという嘘がぶつかりあって、ホンモノではないけれど、ホンモノよりもホンモノらしい何かが見えてくる。見えてくると感じてしまう。
主人公は、その第9地区の住民を、別の地区へ移住(移転)させる責任者になる。その交渉も、奇妙でおかしい。きっと、ヨハネスバーグの中心部から貧民街をなくしてしまうときに、同じようなやりとりがあったんだろうなあ。きちんと書類をそろえ、ていねいに対処するふりをしながら、強引にひとを別の場所へ移転させてしまうという差別が。
などということを、ちらちらちら、うーん、そうか、そうなんだ、うんうん、と考えていると、
突然、
ストーリーが急展開していく。主人公が、エイリアンの発明した液体に触れて、エイリアンかしはじめる。それを地球人が狙う。エイリアンと地球人のハイブリッド。最高の武器だ。主人公は逃げ回りながらエイリアンに助けを求める。そのうち、エイリアンのこどもに気に入られちゃったりして、親しくもなる。はしょって書くと、協力して地球人と戦うようにもなる。
ガンダム(使徒?)みたいなものが出てくるし、くずだらけのパソコンを繋ぎ合わせたスパコン、そしてスピルバーグが「マイノリティ・リポート」で登場させた、i-Phonの先走りのような、手で画面をぱっぱと動かすコンピューターなんかが出てくる。一方で、あいかわらずの銃もあるんだけれど。
わあああ、むちゃくちゃじゃないか。
書くのがめんどうなくらい、変なことだらけなのだ。それが次々に起きて、でたらめを「本物という嘘」のインタビューがごまかしていく。ニセモノなのに、みんなホンモノの肩書なんかもっていたりしてねえ。
ごみからつくった造花なんて、ロマンチックまで登場させたり。
傑作だねえ。映画はアイデアだねえ。
この映画、主人公が人間に戻るために3年かかるそうだから、きっと続編があるな。3年後をめざしているんだな。
というような「予告編」が折り込み済みの映画でもあります。
3年といわず、3か月でもいい、早くつくってね。また見たいよ。
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