池井昌樹「本人」は誰のことを書いたものだろうか。こんなふうに思い出してもらえるのはうれしいことだ。
こまったおとこだったなああれは
きれいさっぱりはいにされ
こんなにちいさくなってしまって
ほんにんはでもいよいよげんき
くらいよみちをよみじへと
いとりいそいそわがやへと
どんなにたのしたったか だとか
どんなにさびしかったか だとか
あとかたもないあたまのうえに
まんてんのほしちりばめながら
「黄泉路」と「我が家へ」が並列される。「楽しかった」と「寂しかった」も並列される。それは「並列」ではなく、ほんとうは「一体」なのだ。あるとき、「黄泉路」が「男」と一体になって立ち現れてくる。「家路」も、あるとき「男」と「一体」になって立ち現れてくる。「楽しさ」も「寂しさ」も同じである。ある何かが「楽しさ」や「寂しさ」ではない。それは常に「男」と「一体」であり、切り離すことはできない。
そういうふうにして、ひとりの「男」を思い浮かべるとき、池井は「その男」として目の前に立ち現れてくる。「書かれている男」と「書いている男(池井)」が「一体」となる。「書かれている男」を取り除く(?)とき、池井は存在しなくなるし、池井を除外すれば「書かれている男」は消えてしまう。池井のことばのなかで、「その男」と池井が出会い、「ひとり」になる。
「あとかたもない」ということばが出てくるが、「書かれている男」も「池井」も、同じように「あとかたもない」ものなのだ。存在はしない。存在するのは、だれかを思う気持ち、そして、その思う気持ちの動きのなかに、ひとは「あらわれる」ということだ。
あるのは、あるとき、何かが「あらわれる」「たちあらわれる」ということだけなのだ。
それは、星空のように、あるときがくれば(たとえば「夜」がくれば)、一斉に輝くように、一種の「摂理」なのだ。
あ、でも。
こんなふうに詩を完璧な美しさに高めてしまっていいのだろうか、と不安になる。池井の詩に、特にこの詩について、どんな不満があるというわけではないけれど、だからこそ、ちょっと困るなあという気持ちにもなる。
あまりにも「自在」すぎて、池井のことばが「自由」をめざして動いているという感じがしないのだ。完成されすぎている。
*
小笠原鳥類「朝食」のことばは、「主語」「述語」が結びついていない。学校教科書文法でいうと、不完全な「文体」である。
ここに模様(動物の形)が、くだものの
色彩に塗られた建物の、壁に。ここに
この2行のことばのうち「主語」はどれで、「述語」はどれか。「動詞」は「塗られた」しかなく、その「塗られた」は「建物」を修飾している。「述語」にならない。そういう不完全な「文体」であるけれど、私は、なぜだか、
くだものの色彩にぬられた建物の壁に、模様(動物の形)が、ある
と思ってしまう。「模様」(主語)が「ある」(述語)という「文章」として読んでしまう。不完全というか、主語-述語という形式を小笠原が破壊して書いているにもかかわらず、ことばがそんなふうに動いていくのを感じてしまう。
なぜだろうか。
「助詞」のつかい方が強靱なのだ。「ここに」の「に」が、再度「壁に」の「に」になって反復され、その「助詞」の力によって「ここ」と「壁」が同一のものとなる。小笠原は、いつもいつも完全な形で「助詞」をつかうわけではないが、必要なときはかならず正確につかう。そして、この「正確に」というのは、学校文法というか、文学の歴史というか、いわゆる誰もが知っている「正しさ」に基盤を置いている。
完璧な嘘のこつは、全部を嘘で固めるのではなく、ひとつだけ「ほんとう」を含ませることだ--というようなことを何かで読んだ(聞いた)記憶があるが、小笠原は「助詞」を正確にすることで、いわぬる「学校教科書」の「文体」を破壊し、独自の文体をつくりあげる。完成させるのである。
最初の2行が、もし「くだものの色彩にぬられた建物の壁に、模様(動物の形)が、ある」という単純な文章(ことばのありよう)に収斂してしまうなら、しかし、小笠原の詩はおもしろくない。たのしくない。
私はとりあえず、冒頭の「ここに」を「壁に」という形で読み取り、「ある」という動詞を補う形でひとつの「文章」を浮かび上がらせてみたが、小笠原は最初の2行が簡単にそういう文章になってしまうことを知っているから、即座にそれを破壊するために、2行目の最後にもう一度「ここに」と置く。
そのとき「ここ」は「壁」なのか。「壁」ではない。冒頭の「ここ」が「壁」であったら、その「ここ」は2行のことばによって「壁」に変質させられた「もの」である。何かである。その「なにか」がもう一度「ここ」というあいまいなものにひきもどされ、そこからことばが動きはじめるのだ。
ここに模様(動物の形)が、くだものの
色彩に塗られた建物の、壁に。ここに
写真で撮影されている、写真と
映画についての記事が多い(おお、
イルカなど、灰色の動物の、出現する
映画についての)カラフルな雑誌に
「雑誌に」。それは「雑誌」に掲載された「写真」なのか。雑誌は、映画の記事を載せている。そこには動物の写真がある。--それは、冒頭の2行の「動物の形」を、ことばの「過去」から、いま、へと噴出させる。そのとき、「壁」は「壁」そのものではなくなる。「壁」ではあっても、それは「雑誌」に掲載された写真のなかの「壁」である。
小笠原は、ことばの「過去」を噴出させるために「学校教科書」の「文体」を破壊しているのである。
ことばは常に「過去」を「いま」に噴出させながら、「いま」「ここ」から別なところへと動いていく。「未来」へ、と簡単に言ってしまっていいかどうか、私にはわからないが……。
このとき「過去」とは、明確な「もの」である。「もの」はそれ自体で「述語」をもたないけれど、その「述語」のかわりに、小笠原は、「助詞」をつかうというと変だけれど、助詞でことばにある方向性をだす。そこには、なんといえばいいのだろうか、自然と「日本語」の意識が動く。動いてしまう。その結果、どうしても「日本語」になってしまう。詩というのは、それぞれ独立した「外国語」なのだけれど、その独立した「外国語」が「日本語」で汚染されてしまう。
ほんとうは、小笠原は、そういうものをこそ破壊したいのだろうけれど……。
破壊したくて破壊でなきものが、「日本語」として小笠原に復讐をしかけてくる。その戦い--そう思いながら読むと、小笠原の詩はおもしろい。
あるいは、逆に、小笠原のことばを、英語などの外国語にしてみたらどうなるか、それを考えると、「日本語」の復讐の度合いがわかっておもしろいかもしれない。
次の数行、英語、フランス語(など助詞をもたない国語)に翻訳すると、どうなるかな?
「今月の、たべものの店」「野球
サッカーの、緑色のものの上で走る
元気な人たちが、さまざまな肉を
食事」写真と、短文と、料理のカラー写真が並び
ページを読んでいる(広げている、印刷
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