城戸朱理「時間の解体へ」 | 詩はどこにあるか

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城戸朱理「時間の解体へ」(「現代詩手帖」2010年02月号)

 城戸朱理「時間の解体へ」は三井喬子『青天の向こうがわ』評である。

 一年は誰にとっても一年であるわけだが、五歳の子供にとっての一年が、人生の二十パーセントであるのに対して、五十歳の人間にとって、一年とは、人生の二パーセントでしかない。子供のころの一年が永遠を思わせるほど長いものであるのに、年をとるにつれて、一年が早く感じられるというのは、その意味では当たり前であり、私たちは、そのように、時間というものを年齢に応じて主観的に把握している。

 びっくりしてしまった。こんな算数って、あるの? だいたい、この計算、あっているの?
 私は城戸のように頭がよくないので、昔のことはほとんど記憶していないが、たとえば生まれてすぐのその日、その一日は、城戸の計算によれば、その日は私にとって人生の百%になるわけだけれど、長かったのかなあ。わからないなあ。一歳の1年でも、やっぱりわからない。ぜんぜん長いとは感じないなあ。
 ちょとものごころがついて、たとえば小学生のとき。私は、山の中の小学生だったので、いまの子供のように塾もなければ習い事もない。遊ぶといっても、家の手伝いをしないことには遊べないし、暇なのか忙しいのかわからなかったが、たしかに夏休みは終わらないんじゃないかと思うくらい長かった。宿題はしない主義(?)だったので、最後の1日だって長かった。けれど、たとえば10歳のときの1年が人生の10%とは感じられないし、夏休みが40日として、ええっと、何%? それから、その夏休みの1日は人生の何%? わからないけれど、それでも長い?
 いや、ちょっと考えて、たとえば50歳の1年は、何歳のときの何日分と同じ割合になる? わかる? わからないなあ。算数の計算式があれば計算はできるだろうけれど、そんなふうにして計算して出てきた「数字」って、正確なもの?
 だいたい、そんなふうに「計算」で出さざるを得ないものって、「主観的」?

時間というものを年齢に応じて主観的に把握している。

 城戸ははっきりそう書いているが、「主観」って何なのさ。
 頭の悪い私は、はっきり言って、怒りだしちゃいますねえ。ちゃんと「日本語」で説明してくれよ。頭いいんだから、日本語くらい話せるだろう、と石でもぶつけたくなっちゃいますねえ。
 うちで飼っている犬だって、こんなわけのわからないことは言わない。
 「五歳の子供にとっての一年が、人生の二十パーセントであるのに対して、五十歳の人間にとって、一年とは、人生の二パーセントでしかない。」という計算って、「主観」じゃなくて、「主観」とはまったく関係ない(主観を無視した)「客観的」計算じゃない? 1(年)÷5(年)=0.2  1(年)÷50(年)=0.02。この「数学」が「主観的数学」だったらたいへんだよ。「1÷5=0.2 というのが数学の世界だけれど、私にとっては、1÷5=0.5 なんだよ」、あるいは「1÷5=7」というのが「主観的(実感)」という具合になるんじゃないの? 「主観」と「客観」がごちゃごちゃになっていない?

 詩にしろ、小説にしろ、文学というものは、それぞれの「個人的外国語」であることは理解しているつもりだが、あまりにも「日本語」からかけ離れている。
 「主観」を定義することから説明しなおしてよ。

 あ、違う言い方で質問しなおそう。私の疑問を書いておこう。

 誕生直後の子供、あるいは一歳のときは「主観」も「客観」もない、だから時間を「主観的」に把握できない。だから、たとえば一歳のときの1年は、その人にとって人生の100 %であるという計算は、そもそも成り立たない。
 城戸の「算数」(いや、小学生で習う足し算、引き算、掛け算、割り算という簡単な「算数」なんかではない--と城戸は主張するかもしれないが……)が、かりに正しいとしても、城戸は「主観」「客観」という意識がいつから人間の精神を動かしているかを除外したところでおこなわれているから、5歳のときの1年が人生の20%であるという計算にはまやかしがある。いつから「人生」と「その一生」、「その時間」を「主観的」に把握できるか、という大前提ぬきにして、○歳のときの1年はそのひとの○%なんて言えるわけがない。

 こんな「だまくらかし」が私は大嫌いだ。

 だいたい城戸は「主観」というものをどういう意味でつかっているのだろう。
 「主観」って、「客観」とは違って、「単位」がないよなあ。「単位」がないから「主観」だというのだと思うけれど、そういう「単位」のないものを、単位のあるもの(1年だとか、50年とか、城戸は「年」を単位としてつかっている)で「割る」ということは可能なの? 1年÷5年=0.2  ね、ちゃんと、「客観」には「単位」があるでしょ? ある単位を同じ単位の数字で割るとパーセント(割合)がでる。同じ単位でわらないときは「割合(パーセント)」にはならない。単位があることが「客観」の証明。
 単位のない「主観」を割ってパーセントを出すというような、そんな「高等数学」が、いったいどこに存在する?

 「割れない」から「主観」、数学で証明できないから「主観」。それなのに、「主観」を数学で証明しようとする。
 なんのために?
 私は数学ができます、と自慢するために? それとも、数学を出せば、数学に弱い(?)詩人をごまかすことができる? あ、政治家が、一般市民が知らないカタカナ用語でなにか新しい嘘を言うときみたいだねえ。「カタカナ用語の意味を知っていて、批判してるの? まず、カタカナ用語から勉強したら?」政治家が嘘をつくときは、そこからはじめるね。同じように、城戸は「数学がわかるの? まず数学を理解してから批判したら?」と詩人(読者)をだまくらかそうとしているようだ。
 「主観」と「時間」の関係を「算数」でごまかしたあと、城戸は、結論として、こう書いている。

 この詩集は、時間と存在が消え失せる消尽点を詩的に突きつめることによって、逆に、主観ではありえぬ時間と、時間の外のにある存在というものを示そうとしているのだと言っていい。

 わけがわからない。「時間と存在が消え失せる」とき、「時間の外にある存在」って、何さ。時間が消え失せるなら、時間の内も外も消え失せる。存在が消え失せるなら、存在はどこにもない。「外にある」なら、それは「消え失せない」。「主観ではありえぬ時間」が「絶対時間」というものなら、それに「外」なんてありうるのか。いつでも、どこでも存在するのが「絶対時間」であるだろう。
 「主観時間」の「割り算」という「高等数学」を持ち出す前に、「主観」なんていう前に、感じたこと、実感を、実感のまま書いたらいいだろうに、と私は思う。ひとをだまくらかすために「論理」(高等数学)をつかう前に、「肉体」でことばを動かすべきだろう。


戦後詩を滅ぼすために
城戸 朱理
思潮社

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