誰も書かなかった西脇順三郎(107 ) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

詩の感想・批評や映画の感想、美術の感想、政治問題などを思いつくままに書いています。



 西脇の「音楽」は、どう説明していいか、実際のところわからない。たとえば「たおやめ」の書き出し。

都の憂鬱にめざめて
ひとり多摩の浅瀬を渡る。
梨の花は幾たびか散つた。

 「音」がとても気持ちよく響いてくる。リズムもとても気持ちがいい。私は「意味」を考えていない。音読するわけではないが、「音」が耳に響いてくる。
 1行目「都の憂鬱にめざめて」はゆったりと動く。それが、2、3行目で憂鬱とはまるで関係がないように、快活に音が動く。たぶん「た行」の音の繰り返しが気持ちがいいのだ。2行目「ひとり」の「と」からはじまり、わ「た」る、いく「た」び、「ち」「つ」「た」と動く。
 奇妙な言い方になるが、もし西脇が「散った」と促音でことばを表記していたら、この「音楽」は違ってくる。これは、奇妙な言い方であるとわかっているが、私には、その奇妙さのなかに、西脇の音楽の秘密があるかもしれないと思う。
 私は西脇の詩を音読はしない。あくまで「黙読」。「黙読」というのは「黙」して「読む」ということだが、そのとき声は出さないが「耳」は働いているし、声には出さないが発声器官は動いている。そしてそれは「目」(眼)をとおして動いている。「黙読」ではなく、「目読」あるいは「目読」ということばをつかいたくなる。
 そして、「目読」のとき、「散つた」の音は、「目」と「耳」と「発声器官」で微妙にずれる。目はは「つ」と読む。けれど、耳と発声器官は「っ」。そのずれが、意識のどこかをめざめさせる。何かが敏感になる。
 その敏感になったなにかのなかに「か」という「音」と文字が鮮烈に輝く。あかるい「か」の音。「た」と「か」の響きあい。
 もし、この3行目が「梨の花は幾たびも散つた」であったなら。「か」ではなく「も」ということばを西脇がつかっていたとしたら……。
 たぶん、この詩の音楽は違っていた。「意味」的にみて、「か」と「も」がどれほど違うかよくわからないが、音の問題で言えば、全体に「か」の方がはつらつと響く。音にスピードが出る。
 そして、さらに。
 「た」と響きあう「か」の音に影響されてのことだと思うのだが、「梨の花」が、私の「目」のなかで「梨花」になってしまい、「りか」という音が遠くから聞こえてくるのだ。「なしのはな」にも「い」の音はあるけれど「りか」の方が「い」の音が強烈である。そして、その強烈な「い」が「いくたびかちつた」のなかで形をかえながら動く。「いくたび」の「い」は異質だが「たび」の「い」、「ちつた」の「い」の音は「りか」の「り」に含まれる「い」と、ぴったり重なる。

 あ、こんなことは、きっとどう書いてみても、なんの説得力も持たないだろうと思う。思うけれど、あるいは、思うからこそ、書いておきたいとも思う。誰もこんなことを西脇の詩について言わないかもしれない。言わないかもしれないけれど、私が西脇の詩が好きなのは、こういう、なんともしれない、説明のしようのない部分なのだ。

梨の花は幾たびか散つた

 かっこいいなあ。この音をまねしたいなあ。この行がほしいなあ、と思い、読み返してしまうのだ。
 詩のつづき。

わが思いのはてるまで
静かに流れよ洲(す)から洲へ
明日は
わが男を娶(めと)る日だ。
心はおののくのだ。

 し「ず」かにながれよ「す」から「す」へ/あ「す」は--この「す」の繰り返しも美しい。そのあとの「「日だ」「のだ」の「だ」の繰り返しもおもしろい。不思議に、ことばが加速していく。
 けれど、この「のだ」が、もし2行目にまぎれこんで、

ひとり多摩の浅瀬を渡る「のだ」

 と書かれていたとしたら……。今度は、音楽が崩れてしまう。音は繰り返せばいいというものではない。音が「音楽」になるためには、なにか別な要素も必要なのだ。
 詩はつづく。音の響きあいはまだまだつづく。

唇をこんなに梨色(なしいろ)に塗り
髪はカピトリノのヴィーナスのように
深い淵のように渦巻かせ
頬を杏(あんず)のうす色にぬつたものの
わが恋のこのはてしない色には
劣るのだ。
明日は
わが男を娶る日だ。
この土手のくさむらに
赤い百合が開くのだ。
わが思いを寄せた数々の人々よ
見知らぬ釣人(つりびと)よ
さようなら
  (谷内注・「ものの」のあとの方の「の」は原文は踊り文字。いままで引用して
  きたものも、踊り文字は採用していない。私のパソコンでは表記できないので。)

 「のだ」「日だ」の繰り返しのほかに、こん「な」「な」しいろ、なし「いろ」カピト「リノ」、塗「り」カピト「リ」ノ、「か」み「カ」ピトリノ。「ふ」かい「ふ」ち、「ふ」かい「う」ず。う「ず」あん「ず」。「うず」「うす」いろ、「こい」の「この」。
 そして。
 「な」「し」「いろ」--はて「し」「な」(い)「いろ」
 私はめまいを覚えてしまう。モーツァルトの繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し、あきることのない繰り返しに出会ったときのように、「気分」というものが(そんなふうに呼んでいいのかどうかわからないが)、ぶっとんでしまう。酔っぱらってしまう。
 なんだかわからないが、「明日は/わが男を娶るのだ」、と女になっていいふらしたい気分になってしまう。



詩人たちの世紀―西脇順三郎とエズラ・パウンド (大人の本棚)
新倉 俊一
みすず書房

このアイテムの詳細を見る