支倉隆子「冬の猿/アラバール」はジャン・ギャバン主演の「冬の猿」という映画を思い出す詩である。思い出すといっても、「その映画は見たことがない」。この矛盾のなかで、ことばはどんなふうに動くか。動いていける。
どこで、どんなふうに手にいれたかわからない「知識」がことばとなって動いていく。
鳩を飼う殺し屋、街角、場末、アラバール。「奇妙に柔らかい巣」。奇妙に柔らかい巣をもった殺し屋。奇妙に柔らかい巣をもった鳩を飼う殺し屋。鳩を飼う殺し屋が奇妙に柔らかい巣を持ち……、
ここでは何も言っていない。その何も言っていないところがおもしろい。支倉をとらえているのは、単なることばである。「意味」をもっていないことばである。「意味」という言い方が不自然なら、帰属する「現実」をもたないことばである。それが何かを正しくあらわしているか、判断する材料を支倉はもっていない。「冬の猿」を見ていないのだから。
それでも、ことばは動く。
なんのために? どこへ向けて?
何もわからない。わからなくても、動いていこうとしている。それを支倉は、ただ動きにまかせて追っている。
そして、その途中には、「非鉄金属減量地金問屋。㈱吉澤五郎商店」というような、ことばの乱入もある。それは「冬の猿」とは無関係なようでいて、あ、ほんとうは、この突然の「もの」そのもののことばの乱入を支倉は書きたかったのではないだろうか、と想像させる。
「冬の猿」など、映画オタクにまかせておけばいい。どうでもいいのだ。その映画など。ただ唐突に「冬の猿」ということばを思いついた支倉は、そのことばを書きたいと思い、そのこ書きたい気持ちを「冬の猿」ということばとともに動かしていて、いろいろなことばと出会う。
映画の街、映画のバー(アラバール、とはア・ラ・バール、酒場にて、くらいの意味だろうか)とは遠く離れた支倉の街が、重ならないまま、重なり(奇妙な言い方だけれど、ずれそのものとして重なり)、手触りのあることばが噴出してくる。
映画の聞きかじった「ストーリー」から「鳩」だの「殺し屋」だの「柔らかい巣」だのということばが噴出してくるように、支倉の街の中から、「非鉄金属減量地金問屋。㈱吉澤五郎商店」あるいは、「丸穴㈱富田穴かがり工業所」というようなものか噴出してくる。それは、「いま」「ここ」にある「過去」である。
あ、ことばは動くとき、どうしても、「いま」「ここ」へ「過去」を噴出させるものなのだ。そして、「過去」だけが「未来」へ動いていくのだ、ということがわかる。
その構造は、支倉が「冬の猿」ということばを急に思い出したのと同じ構造である。入れ子細工のように、ことばが動き回る。ぶつかり、音を立てる。その音を楽しみながら、支倉はことばを動かしている。
ここに「無意味」の美しさがある。
*
荒川純子「贖罪」「湖水婚」は「無意味」の対局にある。荒川のことばは「意味」を伝えたくてもがいている。
壁の向こう側はよくみえても
私は出られない
でも私は抜け出せない
(「贖罪」)
「私は出られない/でも私は抜け出せない」は変じゃない? 「出られない」なら「抜け出せない」のはあたりまえ。「でも」で結びつけると矛盾するよ。
ああ、そうではないのだ。
この「でも」にこそ荒川の苦しみである。
この3行は、ほんとうは「壁の向こう側はよくみえる/(でも)私は出られない/壁の向こう側はよくみえる/でも私は抜け出せない」と4行なのだろう。4行書いている時間があれば、荒川はもっと正確に「意味」を伝えられる。しかし、荒川は、そんなふうにしてことばを「ていねい」に誤解のないように動かしているほどの余裕はないのだ。
支倉は「無意味」を噴出させることで、ことばの楽しさを味わわせてくれたが、荒川にとっては「無意味」は耐えられないかもしれない。
私は今、せかされている
(「贖罪」)
何に?
ことばに、である。ことばにならないことばに、せかされているのだ。
「湖水婚」というのは、そうしてせかされる形で噴出してきた、荒川の悲しみであるだろう。「湖水婚」ということばは、辞書にはのっていない。せかされて、荒川の「肉体」が生み出したことばである。支倉は「過去」をことばとてし噴出させたが、荒川は「過去」をそのまま噴出させたくない。「肉体」のなかで「過去」という精子と荒川自身の卵子を結合させ、新しい「いのち」として生み出すのだ。
私はボートと婚姻した
女はオールを持ってはいけない
唇を縫われてただ座っていればいい
(略)
私には決定権はない
首にはみえない番号がふられ
順番に居場所を決められる
それが私には湖だった
ボートとの足かせが私の生き方と示され
誰もが憧れていた
服も髪も身につけるものは全て決められ
ずっと心待ちにしていた
こんな悲痛な事だなんて
湖水に手を浸しあおむけになる
どれだけこうしていればいいのだろう
ボートにゆられて
私は湖の中心でじっと動かないでいる
あ、荒川は、ことばがことば自身の力で生まれてくるのを待っているようでもある。荒川の「肉体」をくぐりぬけることで、「流通言語」とは違った形になって、荒川の胎内を突き破って出てくるのを待っている。「湖水婚」ということばは、そのはじまりを告げている。
荒川は、いま、新しいことばを妊娠している。
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