ピーター・ジャクソン監督「ラブリーボーン」(★★) | 詩はどこにあるか

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監督・脚本 ピーター・ジャクソン 出演 シアーシャ・ローナン、マーク・ウォールバーグ、レイチェル・ワイズ、スーザン・サランドン

 「ラブリーボーン」の「ボーン」を映画を見るまで、「骨」だとばかり思っていた。いつまでたっても「骨」が出てこない--変な映画、と思いつづけてみていたのだが……。あ、「ボーン」は誕生だったんだねえ。
 少女が殺されるストーリーなのに「ラブリーな骨」では俗悪すぎるか……。でも、私なんかは、げてものが好きなので、「骨」を期待してたんだけれど。

 予想とは違ったのが残念なのだけれど、それにしても奇妙な映画。
 変質者に殺された少女が家族のことを心配する。そして、それを殺された少女の視点から描く。画期的といえば画期的だけれど、しっくりこない。犯人に対する少女の怒りが感じられないのだ。変じゃない?
 これは少女の視点から描いた--という体裁をとりながら、家族の視点から少女を思いやっている映画なのだ。愛する娘(姉)が殺された。その少女は、家族のことを心配して「天国」へいけずに、さまよっている。家族思いの少女に答えるために、家族は、少女の死、その悲しみをどう乗り越えていけばいいか。
 家族の誰か(父であってもいいし、母であってもいい、妹か弟であってもいい)が、少女はきっと残された家族のことを思いつづけている。だから、家族が力を合わせて助け合い、愛し合い、この悲しみを乗り越えなければいけない。そうしないと、少女は安心して天国へゆけない。きちんと生きていくことが、少女を天国へ旅立たせるための全体的な条件である。
 家族だけではない。恋人も同じ。少女の思い出は思い出としてこころに秘め、新しい愛へ進まなければならない。生きることが、少女にやすらかな眠りを与えることである。
 少女を愛したひとたちが、それぞれ再生する--その再生したいのちのなかで、少女もまた生まれ変わる。いきいきと生き続ける。
 うーん。わかるけれどさあ……。
 これって、映画じゃなくて、小説の仕事だよなあ。「映像」ではなく、「ことば」の仕事だよなあ。「映像」では、そんなことはまったくわからない。「ことば」なしでは、なんのことかさっぱりわからない。
 だから、ほら。
 映像よりも前に、死んでしまった少女のナレーションがすべてを説明する。「犯人」が誰かも、少女が「ことば」で説明する。(ショッピング・モールにいた怪しげな男が犯人ではない、なんてことまで、あらかじめことばで説明する。)少女自身の心配や喜びも、ぜんぶナレーション。ひどいでしょ? 映画として。映画になってないでしょ?
 

 犯人が事故で死んで、それで事件が解決--というのも、安直というか、いいかげんだなあ。それで家族は安心というか、気持ちが晴れるの? 殺された少女の気持ちは?
 不全感が残るなあ。

 *

 映画の感想になるかどうかわからないけれど……。
 犯人を誰がやるか。キャスティングのことだけれど。私は、映画がはじまってすぐ、こういう映画なら、ウィリアム・ハートがやるとおもしろいなあ、と思ったのだけれど、似てましたねえ。風貌が。禿げさせて、もっとやせていればウィリアム・ハートそのものじゃない? ウィリアム・ハートは「善人」役が多いようだけれど、やっぱり(?)「悪人顔」と思う人がいるんだなあ、と退屈にまかせて考えていました。
 きっとウィリアム・ハート自身がやった方が、この映画は怖くなったと思うけれど、そうすると、「ラブリーな誕生」(あるいは、「ラブのあるリ・ボーン 再生」)ではなく、ほんとうに「ラブリーな骨」の世界になってしまうかな?


 


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