西脇のどこが好きか。なぜ好きか。自分で感じていることなのに、それを書くのがむずかしい。
「詩」という作品。そのなかほど。
薔薇の夏
ゼーニアの花をもつて来た人
杏色の土
手をのばし指ざして聞いた人も
「あれですか
君のところは」
水銀のような上流のまがりめ
マーシマロの花の黄金の破裂がある。
「指ざして」の「ざ」の「音」が好き。濁音の豊かさに、ぐいっと引き込まれる。私は音読をするわけではないが、「指ざして」という文字を見た瞬間に、声帯が反応する。「さ」ではなく「ざ」。濁音のとき、音が「肉体」の外へ出ていくだけではなく、「肉体」の内部へも帰ってくる。そして、「肉体」の内部でゆったり力が広がる。その感じが、なんとなく、私には気持ちがいい。「ゆび・さして」では、「さ」の音ともに力がどこかへ消えていってしまう。
そして、そのあと。
「あれですか
君のところは」
この、何も言っていない(?)2行がたまらなく好き。大好き。
「あれ」とか「それ」とか……。同じ時間を過ごした人間だけが共有する何か、「あれ」「それ」だけでわかる何か。その口語の響き。
そして、その口語とともに、ことばのなかへ侵入してくる「現実」。その不透明な手触り。
不透明。
不透明と書いて、私は、ふいに気がつく。
西脇のことばには、いつも不透明がついてまわっている。
透明なものが、たがいに透明であることを利用して(?)、一体になってしまう、透明な何かになってしまうというのとは逆のことが西脇の詩では起きる。
不透明なものがぶつかりあい、けっして「一体」にはならない。たがいに自己主張する。そして、その自己主張の響きあいが楽しいのである。
私は西脇の濁音が好き--と何度か書いたが、その濁音も、清音と比較すると不透明な音ということかもしれない。清音は透明な音。濁音は不透明な音。そして、その不透明さに、私は一種の豊かさを感じる。
濁音だけがもちうる「温かさ」「深み」というようなものを、感じてしまう。
濁音--と書いたついでに。この「詩」の最後の2行。
さるすべりに蟻がのぼる日
路ばたで休んでいる人間
この2行に出てくる濁音の響きも、私にはとても気持ちがいい。「さるすべり」「のぼる」のなかで繰り返される「る」と「ば行」。それが次の行で「路ばた」の「ろ・ば(た)」に変化する。「だ行」(で、という音)、「ら行」(ろ、る)、そして繰り返される「ん」の「無音」。
なぜ、この2行に快感を感じるのか私にはわからないが、快感なのだ。「音楽」なのだ、私には。
声には出さない。黙読しかしない。それでも「音楽」なのだ。
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