荒井隆明『廊下譜』 | 詩はどこにあるか

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荒井隆明『廊下譜』(あざみ書房、2010年01月31日発行)

 荒井隆明『廊下譜』には「まえがき」がついている。どうやって「構成」されているか、前もって説明している。とてもうるさい。詩は書いた瞬間から作者のものではなく、読者のものである。というより、ことばそのもののものである。ことばが勝手に動いていっていい。ことばから、わざわざ自由を奪い取って(ことばに枠にはめて)、それで「これが詩です。こういう詩です」と言われても、興ざめするだけである。
 「秒室」という詩があるが、見渡したところ、「時間」が、あるいは「時計」がというべきか--がテーマのようである。「テーマ」というものが、すぐに浮かびあがってくるところが、この詩集の窮屈さでもある。

何もない平原、と書いたが、それは正しくない。白く細い枝のようなものが一面に積もり、地平線の向こうまで続いているのだ。それは秒針だ。

 この文体が、荒井の「時間論」である。あるものを提示する。ここでは、まず「平原」を提示する。そして、それを反芻する。ここでは「正しくはない」という形で反芻する。反芻するとき、そこに「平原」と「平原ではない(正しくはない)」があらわれる。半数の間に「間(ま)」が生まれる。その「間(ま)」を別のもので埋める。「細い枝」。さらに、その「細い枝」を「秒針」と言い換えるかたちで反芻する。「間(ま)」が増幅する。
 これは、「時間」のあり方、「時間」を生きるときの「人間」のあり方に重なる。
 反芻とは、どこかへ向かって歩くことである。ここから出発し、ここではないどこかへ歩くこと。その歩行にともない、距離(間--ま)がひろがり、そこで「発見する」何か(そこで出会う何か)を定義し、反芻し、言い直し、さらに「間(ま)」を増やしていく。「間(ま)」は時計が刻む「秒」のように、増える。増えつづける。
 荒井は、その「時間」の秘密(?)を、自分で「秒針」と言ってしまっている。荒井(というか、荒井のために帯を書いたひと)は、荒井の詩を「方法詩」と呼んでいるが、「方法」は、即座に「答え」を出してしまう。そこが窮屈の原因である。
 「間(ま)」が増えつづける--と私は便宜上書いたが、「間(ま)」は増えない。増える前に、簡単に定義され、処理されてしまう。「方法」なのかで安定してしまう。
 だから、

一体どれだけ積もっているのか、見当もつかない。硫黄のような光を浴びて、腐乱した卵のような光沢を放ちながら、月に向かって毛羽立っている大地。足は秒針を踏み続けて無数の裂傷に模様され、血が滲んでいる。

 荒井は一生懸命書いているが、「血」が見えない。「腐乱した卵のような光沢」とか「裂傷に模様され」とか、「いま」「ここ」を突き破っていくようなことばの逸脱を獲得しながら、「時間が人間を傷つける」というような、流通言語の定義へと収斂していくことばの無残さだけが浮いてくる。

 ことばが収斂する--たぶん、そのことが、荒井の詩を「不自由」にしているのだ。何かに向かって歩く--そのとき、せっかく「反芻」による「時間」の増殖というものに出会いながら、その増殖を「目的地(?)」という結論に向けてひっぱりすぎる。「目的地」(結論)へ向けて、ことばを動かすという「方法」意識が強すぎるのである。
 「秒室」という詩は、「東の扉から入り、西の扉へ向って歩いていた。」ではじまり、「そしていつか、西の扉を出ていた。時間の果てに立っていた。」という具合にことばが動いていくのだが、西の扉をめざしていても、西の扉にたどりつけない、違うところへ、この詩で言えば「東と西の間」へ、どこまでもどこまでも迷い込んでしまうのがしてあるはずなのに、ぜんぜん迷えない。ことばが「結論」へ収斂する--そして、収斂させるために、荒井がことばを動かしているからである。

 短い詩でも同じである。

嘘や
沈黙や

を作っている
一本の白い薔薇

 荒井の詩をちょっと読むと、最後の「白い薔薇」は「月」の「比喩」であることがわかる。そして、この詩では「嘘や/沈黙や/夜」と「月(白い薔薇)」が向き合っていることがわかる。「月」を「白い薔薇」という「比喩」に収斂させるために「嘘」「沈黙」「夜」が選ばれていることが、すぐにわかる。
 「嘘」「沈黙」「夜」と「月」は完全に「予定調和」である。それは「月」を「白い薔薇」にかえたところで変わらない。いや、そういう「比喩」では「予定調和」が強くなるだけである。「比喩」さえが、「方法」によって導き出されたものにおとしめられてしまうのだ。
 こういうことを「無残」という。

嘘や

沈黙や

夜を作っている一本の白い薔薇

 この詩は、そういうふうに、三つの、無関係な「存在」の「音」になり、「音」になることで「和音」を作れたかもしれない。けれど、荒井は、それを「メロディー」のなかに窮屈に閉じ込めてしまった。「メロディー」は「予定調和」の美しさに収斂するが、その瞬間、「音」の楽しさが消えてしまう。
 こういうことを「無残」という。