田中昌雄『蟻のカタコンベ』には、いろいろなことばが「同居」している。その「同居」のあり方が、私には、かなり不満である。
と、書いてもしようがないのかなあ。
たとえば、「風のゴースト」。その書き出し。
石の吐息
生き物の粉末
ときに、血と悲鳴
「石の吐息」「生き物の粉末」「血と悲鳴」は同じ「音楽」、「ときに、」は別の音楽。それは、「同居」できないことはないのだけれど……。そして、私の「好み」をいってしまえば、「ときに、」の方の音楽が、「石の吐息」などの「音楽」を突き破って動いていく瞬間が好きなのだけれど……。
2連目。
秘語は
肌で聞かねばならないが
わたしは、皮膚が退化しているので
風は、ただ風
うーん、逆に「石の吐息」の音楽の方が「ときに、」の音楽を封じ込めている、と感じてしまう。そして、その「流通言語」、ちょっと古くない? あ、私は、ここでつまずいているんです。
「ときに、」という文字を読んだときは、なにかがはじまるかもしれない、と感じたけれど「秘語」だの「退化」だのということばが、(引用はしないけれど……)ほら、4連目の「逸脱」「妄念」などど簡単に響きあって、こういうことばの運動なら、すでにもう存在してしまったという気持ちになるのである。
と、書きながら、この詩集について(あるいは、この詩について)書きたいなあと思うのは、そして書いているのは、最終連が忘れられないからである。
あっ、遠くで消防自動車が走っている
(どこかでぼくが燃えている?)
-だったら、空目、空耳を澄まして
貝殻を助けにいかなくっちゃ…
「ときに、」のリズム、深呼吸して「肉体」のなかから、いままで存在しなかったリズムと音を出そうとするときの「肉体」の動き--それに呼応するように、ふいにあらわれてくる「空目」「空耳」。あ、いいなあ。
見誤り、聞き違い--それは、「いま」「ここ」にないものを見てしまうこと、聞いてしまうこと。そして、その瞬間、ことばではないものが、ことばになってしまう。ことばが暴走してしまう。
田中は「石の吐息」も「ことばの暴走」と考えているのかもしれないけれど、そしてそれはたしかに以前はことばの暴走だったのかもしれないけれど、いまでは「ことばの予定調和」。それを破ってしまわないことには、ことばは自由に動き回れない。
ひとは見誤る、聞き間違える。それは、ほんとうは、現実をそんなふうにねじまげてしまいたいという欲望が「肉体」のどこかに潜んでいるからかもしれない。
あっ、遠くで消防自動車が走っている
(どこかでぼくが燃えている?)
それは、「空夢」なのだが、「空夢」はことばにすれば「正夢」になる。ちょっと補足すれば、「現実」の「世界」において「正夢」になる、というのではない。ことばの世界、「夢」のなかでは「空」と「正」の区別はないということである。
ことばが動けば(夢は、ことばで見る)、そこにいままで存在しなかったことが存在する。存在があって、それをことばでとらえるのではなく、ことばがあって、それが存在を変形させる。ゆがめる。そして、自分の「肉体」にあったものにしてしまう。
いつでも人間は、「存在(現実)」を自分にあったものにかえたいという欲望をもっている。それを、ことばのエネルギーで強引に作り上げてしまう。「現実」を破って、非在を存在させてしまう。そういうことがある。
「空目」「空耳」ではなく「肉眼」「肉耳」が、見て、聞いたもの--それが「肉体」を突き破って「いのち」になろうとしているのかもしれない。
田中が最後に書いている「貝殻」。それがどんなものかわからない。わからないけれど、どんな貝殻であっても、それが見たい、それに触れたい、そんなことを感じた。「空目」「空耳」を突き破って動く「肉眼」「肉耳」を感じた。