「橄欖」は瀧口修造研究会報。瀧口の故郷、富山で発行されている。何人かが、それぞれ瀧口に触発されて作品を書いているのだが、そこにひとつの共通したものがある。
ある地点から俯瞰した森の眺望。出口も入口ももはや見つからぬ。
転落も上昇もない。ただ永遠の彷徨と反復。
(霧山深「わたしにさわってはいけない」)
詩の中へ入って行こうと思うのですが
どこから入ればいいのか入り口が見つからず
さっきから顔を近づけて探しているのです
(尾山景子「リボンをほどく」)
十二月。昨日降った雪がとけて、地下へたらたらしみこんでゆく。タイピングはただそのことだけを習熟してゆく。五月女(さおとめ)のように前のめりに。ふだん人は、地面の下のことをどれだけ意識しているか? 時間を物差しで測れば、人の一生など花びらの厚みほどもない。重畳たる第四紀二〇〇万年もの時間に、忘却された多くのものが無名の書として降り積もる。薄くのばされた一頁に、ひとたらしの現像はただ密かに行われる。現れるのは、異界の入り口。
(寺崎浩文「大塚の雪景をゆく」)
「入り口」ということばが出てくる。瀧口の作品に、だれもが「入り口」を見ている。何の入り口? シュールレアリスム。現実を超えた世界への「入り口」だろうか。
私は、実は、シュールレアリスムというものが、まったくわからない。理解できない。どこが「シュール」なのか、なぜ「シュール」と定義するのか、それが理解できないのである。
だから、「シュール」ということばは、ちょっと、脇にどいていてもらうことにして、瀧口をどうとらえていたか--そのことだけを、見ていく。
最初に読んだものに、私はどうしても影響を受けるのだが、霧山深「わたしにさわってはいけない」が、私には一番おもしろかった。特に、最初の部分が。
イメージはすでにそこにあった。一挙に。一目瞭然として。
なにか無法な侵入者のように。目にさわる、刻一刻、心を搏つ力として。
「さわるな」という命令をもって、固く拒むもの。障りへの怖れか、危険の予告か。
だが、あらゆる禁止はひとつの挑発あるいは誘惑なのだ。
さわられたものは常に、即座にさわり返す。つめたい膚に残る他者の指の
仄かなぬくもり。
イメージがそこにある。そこにあることによって、「入り口」を隠す。隠すから、それが「入り口」になる。--私は、そう思う。そして、そのことはシュールレエリスムであろうか、なかろうが、すべて同じである。
あらゆるものは、そこにある。そして、それは常に「入り口」を隠すことで、「入り口」になる。それ以外に、存在のしようがない。
このことを霧山は「さわる」ことをとおして検証している。イメージは、目にさわる。目は、イメージをさわり返す。そのとき「さわり」が「障り」になる。目でさわるときにさえ、その視線に、何か余分なもの(?)が紛れ込み、正確(?)にはさわれない。何か、そこに「歪み」のようなもの(個性、と私は思うのだけれど)が紛れ込む。
そして、そこに「交渉」がはじまる。さわり、さわり返すという交渉が始まる。その交渉の中に、何かが残る。
つめたい膚に残る他者の指の/仄かなぬくもり。
「他者」が残る。「つめたい」と「ぬくもり」という対極にあることばが印象的だが、「他者」はいつでも「対極」にあるもの、あらゆる存在が「対極」をもつということを教えてくれる。その「他者」へむけて、自己を解体しながら近づく。それが、あらゆる「芸術」の思想というものだと思う。拒まれれば拒まれるほど、自己解体の作業は忙しくなる。自己を徹底的に解体しないことには、「他者」にはふれることができない。
瀧口は、そういう自己解体をしつづけた芸術家だと私は思っている。自己解体をしつづけ、ついには自己が「他者」になる。
そして、その解体のなかには、「入り口」の解体もふくまれるから、どうしたって、そこには「入り口」など、ないのである。解体そのものが、「入り口」を隠した「入り口」なのである。
--私の書いていることは、矛盾である。
しかし、矛盾でしか説明できないものがあるのだ。
霧山は、いくつものイメージの霧山自身を解体している。しかし、「他者」にはなっていないように、私には感じられる。「他者」であるより、解体することで、より「自己」になっている--そういう印象が残る。
1
腐食した鉛色の骨片のいくつかから、月明のなかで死者の容貌を占う。
誰なのだ、おまえは?
2
ひたひたと波打ち寄せる渚を見みろす。地熱に溶けてゆく氷河の断崖。
3
ひしめく樹氷の森をぬけ、冥界へ、冥界へ。霊の森の梟が鳴く暁。
4
釣り上げられた魚の目に映る冬の渓谷。
あ、だんだん、俳句になってゆく。「イメージはすでにそこにあった。」というのとは違った感じになっていく。拒絶ではなく、「和解」が残る。
まあ、これは霧山も気づいていることなのかもしれない。
必死になって、その「和解」から逃亡しようとしている。瀧口を脇においてしまえば、その逃亡の部分が、おもしろい。そして、ここから「他者」への脱出(?)が始まる。
6
ワタシハコノ青イ岩盤ヲ貫通スル弾丸デアラネバナラナイ。
7
雪氷の谷が果てしなくつづく。おまえははたして逃亡者なのか、追跡者なのか?
8
叫べ!青い樹木が呼び声に応じて立ち上がり、伸び上がる。沈黙の谺。
9
雪崩、あるいは滝壺への転落。思考は常に挫折する。そのとき
10
やあ、新たな夜明けの眺めだ。亡霊たちが整列している。
「9」の最後の「そのとき」が魅力的だ。「そのとき」というのは一瞬のことだが、その一瞬は完結していない。別なことばで言えば、そこでは何かが「建設」されているのではなく、いま「建設」したばかりのものが、一気に「解体」されている。
「そのとき」というようなことばは、きわめて散文的である。詩から遠い。何かを説明するための、一瞬の「立ち止まり」である。停止である。
しかし、ここに私は、強い詩を感じる。霧山の詩を感じる。それまでの屹立するイメージとしてのことば、いわば「現代詩」が「そのとき」ということばの一瞬、解体してしまっている。「そのとき」はイメージではない。そして、イメージではなくなることによって、そこに詩が出現している。
うまく言えない。
「そのとき」ということばの一瞬、霧山のなかにあるエネルギー、霧山をつくっているもの、瀧口を追いかけているものが、何かではなくなる。「イメージ」をもったものではなくなり、「イメージ以前」のものになる。そういう「イメージ以前」のものこそ、「他者」と呼ばれるのもだろう。「イメージ」になってしまえば、「他者」ではなく「知人」なのだ。
言いなおそう。突然、飛躍してしまおう。
「知人」(あるいは「友人」)を殺してしまう。「他人」にしてしまう。そうすることで、自分自身も「他人」になってしまう。それが、詩であり、それが芸術である。そのとき、「シュール」かどうかなんて、関係がない。「シュール」ということばにとじこめると「他者」は「知人・友人」になってしまう。そんなことは、瀧口は望んではいなかっただろうと思う。
--また、詩の感想からは遠くなってしまったかな。
まあ、いいか。私の書いているのは「日記」である。そして、「誤読」の記録なのだから。
シュルレアリスムの哲学 (1981年) フェルディナン・アルキエ、霧山深・巌谷國士訳 河出書房新社 このアイテムの詳細を見る |