『旅人かへらず』のつづき。
一六七
山から下り
渓流をわたり
村に近づいた頃
路の曲り角に
春かしら今頃
白つつじの大木に
花の満開
折り取つてみれば
こほつた雪であつた
これはうつつの夢
詩人の夢ではない
夢の中でも
季節が気にかかる
幻影の人の淋しき
「春かしら今頃」。この1行がおもしろい。倒置法によって、ことばが緊密につながっている。そして、その「今頃」は実際に結びついているのは「春かしら」ではなく、「(花の)満開」である。書き出しから「春からしら」までの4行がゆったりと動いているのに対して、「春かしら」から「満開」までは、精神が(意識が)急激に動く。凝縮して動く。そして、その凝縮そのものが「春かしら今頃」という切れ目のないことばになっている。
こういう精神の凝縮は誰でもが体験することである。そして、それは「錯覚」(勘違い)であったりすることが多い。錯覚や勘違いとわかったとき、ふつう、ひとはそれを訂正して(修正して)書くが、詩人は、そういう錯覚、勘違いのなかに「詩」があると知っているから、それをそのまま書き留める。
花の満開
折り取ってみれば
こほつた雪であつた
これは古今集からある「錯覚」の詩。梅に雪、花かとみまごう雪、という例がある。これに対する次の行が非常におもしろい。
これはうつつの夢
詩人の夢ではない
すでに定型化されたことばの運動、定型化された錯覚は「詩人の夢」、詩人がめざす詩ではない、というのである。そして、その詩人の夢ではないものを「うつつの夢」、「現実が見た夢」と否定している。「うつつ」とは、このとき「日常」にもつながるだろう。「日常」とは「定型化」した「時間」である。
西脇が詩でやろうとしていることが、ここに、正確に書かれている。
定型化したことばの運動が描き出す「美」は詩ではない。それを破っていくものが美である。「日常」「現実」を破っていく美--それが、詩である。
最後の3行、
夢の中でも
季節が気にかかる
幻影の人の淋しき
「うつつの夢」、見てしまった夢(つまり、ある意味で実在してしまった夢)のことなのに、その夢のなかにでできた「季節」が気にかかる。季節というものに反応してしまう。そのことを「淋しき」と、西脇は書く。
西脇の美意識は、一方で日常を破壊することにあるけど、他方で人間の力のおよばない季節(自然、無常)というものにも反応し、それが気にかかる、という。
これは、西脇の美は、日常を破壊するけれども、その破壊の仕方は、世界の存在を支えている時間(永遠)を無視するものではない、ということを別のことばで表現したものである。
日常(現実)を破壊するけれども、永遠は破壊しない。むしろ、日常を破壊することで、永遠を誕生させる--そういうものを詩と考えていることが、ここから読みとることができる。
日常(現実)を破壊し、永遠を誕生させるという二つのことを同時にやるのが、幻影の人、永劫の旅人なのだ。
西脇順三郎全集〈第6巻〉 (1982年) 西脇 順三郎 筑摩書房 このアイテムの詳細を見る |