誰も書かなかった西脇順三郎(70) | 詩はどこにあるか

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 『旅人かへらず』のつづき。

一六六
若葉の里
紅(べに)の世界
衰へる
色あせた
とき色の
なまめきたる思ひ
幻影の人の
かなしげなる

 この詩は、なんだか不思議である。「若葉」と「紅」のとりあわせが奇妙である。「若葉」はふつうは「みどり」。「紅」(赤)は補色である。1行目と2行目のあいだに、深い断絶がある。あるいは、「わざ」とつくりだされた対立がある。
 だが、この「わざと」があるから、それにつづく行がおもしろくなる。
 衰えた色(とき色)の「衰えた」には「なまめき」がある。それは「いのち」の最後の輝きなのか。「衰え」と「なまめく」は一種の矛盾、対立であり、それは「補色」のように、互いを引き立てる。--そういう補色の構造をうかびあがらせるために、西脇は、わざと「若葉」と「紅」を隣り合わせに置いたのだろう。
 
 それとは別にして。

 ここの部分の音の動きもおもしろい。「衰える」と「なまめく」を対比させ、結びつけるのにつかわれている「とき色」。その「き」が「なまめきたる」の「き」のなかにつよく残っている。「衰え」の「と」、「色あせた」の「た」という「た行」の音は、「なまめきたる」の「た」のなかにあるが、同じように、「とき色」の「と」にもある。
 「衰える」と「なまめく」という二つの概念を結びつけるには、どんな色でもいいというのではない。特別な色でなければならない。そして、その色を決定しているのは、光学的(美術的?)な「色」ではなく、その色の呼び名の「音」なのだ。
 そして。

なまめきたる思ひ
幻影の人の
かなしげなる

 最終行の「かなしげなる」のなかには「なまめきたる」の「な」が2回繰り返され、同時に「幻影の人の」の「げ」もある。
 ただし、この「げ」の音は、「幻影」の「げ」は鼻濁音ではなく、「かなしげ」の「げ」は鼻濁音だから(標準語なら、という意味だが)、この二つの音が響きあうとしたなら、西脇は鼻濁音をつかっていなかったことになる。
 私は西脇の話すのを、テープやテレビラジオを含め、聞いたことがないので、いつもこの点が気になる。


西脇順三郎全集〈第7巻〉 (1982年)
西脇 順三郎
筑摩書房

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