知らないことを読むのはとてもおもしろい。そして、私のようなずぼらな人間は知らないことがあると、それについて調べるのではなく、知らないことの中にある「知っていること」(わかっていること)、いや正確にいうと知っていると思っていること、わかっていると思っていることを中心にして「誤読」へ踏み込み、そこで勝手に「わかった」と自分だけで喜んでしまうのである。
木村草弥「風力分級」は蟻地獄のことを延々と書いている。そこには「感想」というよりも事実が書いてある。(たぶん。)そして、その事実は専門的なことなので、私にはわからないことばがある。
蟻地獄は、粒揃いでない荒地でどうやって巣(わな?)をつくるか。粒揃いになるように「整地」するのだそうだ。そして、そのとき「風力分級」という作業をする。
<風力分級の極意をアリジゴクに学ぶ>など考えてもみなかった。
つまりアリジゴクは整地作業をする際に砂を顎の力で刎ね飛ばすのだが
その際に「風力分級」という「物理学」を応用するのである。
「風力分級」というのは風の力を利用して「ふるい」にかけるようなものなんだろうなあ。軽いものは遠くへ飛んで行く。重いものは近くに落ちる。それを利用して、自分にふさわしい砂(罠にふさわしい砂)を集める。うーん、アリジゴクのことを思うと気が遠くなるけれど、きっと、そういうことなんだろう。
木村さん、あっています? 間違っています? 間違っていた方が、私はうれしい。
どんな間違いであっても、その間違いさえも土台にしてことばう動いていける。間違っていた方が、とんでもない「思想」にたどりつけるからね。バシュラールは想像力を「ものを歪める力」と言ったような気がするが(あっています? 間違っています?)、このものを歪めてみる力の中にこそ、「思想」がある--と私はまたまた勝手にかんがえているので……。
そして、このアリジゴク。成長する(?)とウスバカゲロウになるのだけれど、巣(罠)のなかにいる間は、糞をしないそうである。巣が汚れるのがいやだからだそうである。(アリジゴク語、ウスバカゲロウ語で聞いたのかしら?)そして、羽化してから、「二、三年分の糞を一度に放出するらしい。」(ああ、よかった。やっぱり、見えることを手がかりに、想像しているだけだね。--私のやり方と同じ、…………じゃないか。私は、ことばを勝手に「誤読」するのであって、事実を観察して、そこから推論を築いているわけではないから。)
というようなことを、書いてきて、突然、最終連。
何も知らなかった少年は
年月を重ねて
女を知り
<修羅>というほどのものではないが
幾星月があって
かの無頼の
石川桂郎の句--《蟻地獄女の髪の掌に剰り》
の世界を多少は判る齢になって
老年を迎えた。
あ、あ、あ。「女を知り/<修羅>というほどのものではないが/幾星月があって」なんて。小説(私小説)なら、その<修羅>を綿密に描くのだけれど(最近、詩でもそういうことを書いたものを読むけれど)、その肝心なこと(?)は書かずに、アリジゴクにぜんぶまかせてしまっている。
きっと、そのなかには木村独自の「風力分級」があり、何年も糞をこらえているというようなこともあったんだろうなあ。(触れて来なかったけれど、途中に水生のウスバカゲロウの「婚姻飛翔」についての説明もあるのだ。)
まあ、これは私の勝手な想像だけれど、この瞬間、アリジゴクの生き方が木村の「思想」そのものに見えてきて、とても愉しい。笑いたくなる。陽気になる。(申し訳ないけれど。)きっと、女との「修羅」を具体的に書かれても、これほどまでにはおもしろくないだろうと思う。女のことを書かずに、アリジゴク、ウスバカゲロウを科学的(?)に書くということの中にこそ、木村の「思想」がある。女、その修羅については、「科学的」には書けない。だから、書かない。書けることを(知っていること)を積み重ねて、その果てに、これは女と男の世界のことに似ているなあ、とぽつりと漏らす。その瞬間に、木村の「肉体」が見えてくる。
私は、こういう作品が好きだ。
*
三井葉子「橋上」は入院した友人のことを書いている。
いつ 死んでもいいよ
でも 今日でなくてもよい とわたしの友人が言いました
という2行で始まり、その友人のことばに驚いたことを書いている。「今日でなくてもよい」は、とても傑作である。
あの世とこの世は彼岸と呼び 此岸と呼び
虚空には
橋が
懸かっていると言いますが
この友人のあしの軽さ あしどりのよさ
そう言えば北斎にも谷にかかる橋を渡るひょうきんな人たちを描いた
あでやかな
浮世絵がありました
あの世にも
この世にも傾かない
名人のあしが
座敷を歩いたり
縁先きを歩いたり。
「あの世にも/この世にも傾かない」はいいなあ。たしかに、そういう「思想」を、「名人」の思想と呼んでいいのだと思う。「いつ 死んでもいいよ/でも 今日でなくてもよい」ということばを聞きながら、友人が座敷を歩いたり、縁先きを歩いたりしているときの、その軽やかな、けれど確かな足どりを思い出している。そういうふうに歩きたいと思っている。
友人に対する親密さ、友人が三井によせる安心感のようなものが漂っている。
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