『旅人かへらず』のつづき。
一二〇
色彩の世界の淋しき
葉先のいろ
名の知れぬ野に咲く小さき花
色彩の生物学色彩の進化論
色彩はへんぺんとして流れる
同一の流れに足を洗はれない
色彩のフラクリトス
色彩のベルグソン
シャバンの風景にも
古本の表紙にも
バットの箱にも
女の唇にも
セザンヌの林檎にも
色彩の内面に永劫が流れる
「永劫」とそこに存在するのではなく「流れる」。そして、「永劫」が何かの「内面」に「流れる」とき「淋しい」。
この西脇哲学は、とてもおもしろい。
けれど、それよりおもしろいのは、
色彩の生物学色彩の進化論
ということばである。これはもちろん「色彩の生物学」「色彩の進化論」とふたつのことを書いているのだが、西脇は、そのふたつを改行もしなければ、一字空きもつかわずに、ひとつづきに書いている。だから、読み方によっては「色彩の、生物学色彩の進化論」というふうに読むこともできる。つまり、色彩、そのなかでも生物学色彩(というものがあると仮定しての話だが)の進化論、とも読むことができる。鉱物学色彩、水質学色彩、宇宙学色彩、文学色彩、哲学色彩などというものもあっても、いいじゃないか。そして、もし、そういうものがあるとすれば、そこにはやはり進化論というものがあって……、と私は読むのである。
想像力は暴走し、誤読を勧めるのである。
しかし、私の誤読は、そんなに的外れではないのかもしれない。
色彩のフラクリトス
色彩のベルグソン
ほら、哲学色彩が出てきた。--というのは、冗談のようなものだが、「色彩の生物学色彩の進化論」は「色彩の生物学/(一呼吸)色彩の進化論」と読んではいけない。きっと、そう読んではいけない。あくまで、区切ることなく、呼吸の間を差し挟むことなく、一気につづけて読む。
そうすると、そのリズムにのって、ことばがぐいぐい暴走する。ベルグソンも古本もバット(たばこだろう)の箱も、同列に並んで動く。この明るさ、軽快さが、とても気持ちがいい。
セザンヌが大好きな私としては、「一二〇」は前の部分を全部叩ききって、最後の2行、
セザンヌの林檎にも
色彩の内面に永劫が流れる
という行だけが独立していた方が、もっと、うれしい。--これは、西脇の詩の読み方に反する思いかもしれないけれど、まあ、私は、誰の作品も、自分勝手にしか読むことしかできないのだが、確かに、セザンヌの林檎の内面には永劫が流れている。だから美しく、そして淋しい。
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