「学ぶということ」はイギリスへの旅を描いている。「ヒーニーに」という副題をもつ「本と人」が好きだ。
あなたはカシの枝をたたえ
ぼくはヤドリギの葉叢をうたう
たかが木の枝とはいうまい
いつも彼方からぼくらを招く手
よい香りのする 緑の魂なのだ
自然--緑の魂。そして、それには「よい香り」がする。この「よい香り」の発見が、とてもうれしい。この「よい」香りの発見があるからこそ、反省がうまれる。反省をうながすものは「よい」ものなのだ。「よい」思想、よい「哲学」に匹敵する「よい」香り。それは哲学や思想とは違ってことばを持たない。それゆえに、矛盾しない。とても強い存在である。しかし、人間は、その強い存在を、緑の魂である自然を破壊してきた。殺してきた。そのことについて触れた、後半部分。
ぼくらは何をして来たか
鉞(まさかり)をもって 幹を切り倒した
ナイフでもって枝を払った
あげくに その下で語り合う
読み 考える緑のないのを嘆く
むしろ 声を挙げて哭くべきなのだ
寛大な庇護者を殺したと
敵を殺す者は敵に復讐される
しかし 庇護者を殺した者には
殺されるやすらぎすらもない
影のない曠野(あらの)をさすらいつづけ
永遠に死ぬこともできない
自然を殺した人間は、死ぬこともできない。それは死が人間にやってこないということではない。死んで、死ぬことによって、いのちをつないでいくことができないということだ。
しかし、高橋は、そう書くことで、かろうじて死ぬことができる人間になった、といえるかもしれない。死のあとに、死後があり、その死後を生きるために何をすべきかを知ったからである。死後を、生きるために、書く。ことばを書く。
「永遠に死ぬことはできない」と書く。
「学ぶということ」は明るい響きに満ちた作品だ。
大学の町を迷っていて 突然出た明るい墓地
五月の草花が咲き乱れ 蜜蜂が羽音を震わせる中
碑銘板に背を凭(もた)せ 墓蓋に腿を伸ばして
テクストを読むのに余念のない 髭の若者
隣の墓蓋には少女が腰掛けて ヘッドフォンに瞑目中
向いあった墓に胡坐(あぐら)して 議論に夢中の二人もある
通りかかる大人の誰一人 咎める者もない
咎めないのは 蓋の下の死者たちも同じ
若い体温の密着を むしろ悦んでいる面持ち
生は死と 死は生と いつも隣り合わせ
学ぶとはつまるところ その秘儀を学ぶこと
生きて在る日日も 死んでののちも
死んでののち、死後を生きるとは、つまり、「学ぶこと」なのだ。ことばを動かすことなのだ。常に自分のことばを捨て、新しい他人のことばを生きる。他人になる。究極の他人とは、死んでしまった「私」である。絶対に出会えない存在としての、「死後の私」。それを生きるため、その準備のために、ことばを動かす、詩を書く。それが高橋の「生き方」(思想)である。
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