廿楽順治「それから」 | 詩はどこにあるか

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廿楽順治「それから」(「ガーネット」58、2009年07月01日発行)

 ことばは何のためにあるのだろう。存在しないことがら、事実ではないもの--いや、事実を超えたものを、事実の方に引き寄せるために、ことばは発せられる。
 きのう読んだ池田順子のことばに対する意識に似通うものが廿楽順治の作品にもあると思った。
 「それから」の冒頭。

つづくのがとてもいやになってしまった
ひとりひとり
刺身みたいに切れていたらどうだろう
意識はうすいよね
つづいて
いたときにはすこしも気づかなかった
かなしさ
お尻がまるだしなのにおしえてやれなかった

 人間は「つづいて」はいない。触れ合っても、手をつないでも、性交しても、肉体は「刺身みたいに切れて」いる。つながってはいない。
 つながっているのは「肉体」ではなく、「意識」である。「ことば」である。
 池田の「つつみ」では、少女と母の肉体はつながってはいないのに、つながっている。「意識」としてではなく、制御できない(制御する術のない)本能としてつながっている。本能が人間ひとりひとりを超越してつながっている。
 廿楽の「つづく」は、そういう本能とも違う。あくまで、「意識」である。だからこそ「意識はうすいよね」、ちょうど安い刺身のように……、と書かずにはいられない。
 安い刺身のように、とは、私がかってにつけくわえたことばではあるのだけれど、そんなふうに、なにかを「つづけ」てしまうのが、意識、人間の関係なのだろう。
 池田の「つながるいのち」の悲しみは愛しみであるが、廿楽の悲しみは哀しみである。愛と哀。どちらも「アイ」とも読めるのは、何か、理由があるのかもしれない。

(そういえば)
湖のなかにも
おなじような過疎の町があった
十九でそれをみた
住む
ためには私語が刺身にされなければならない
うすく
ひとや物と
このさき切れていかなければならない

に落ちていった友だちはひとり
なにかを探しにいったわけではないし
捨てにいったわけでもない
この空に
つづいていたくなかっただけ

 何もかもが「つづく」。(そういえば)ということばひとつで、過去のできごとも、いま、ここに「つづく」。
 つながるではなく、つづく。
 「つづいていたくなく」て、投身した友だちさえ、「つづいていたくな」かったということばで「つづいて」しまう。その矛盾。この矛盾を乗り越える方法、術はない。この矛盾を生きるしかない。それが、廿楽の哀しみである。


たかくおよぐや
廿楽 順治
思潮社

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