高橋睦郎『永遠まで』(3) | 詩はどこにあるか

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高橋睦郎『永遠まで』(3)(思潮社、2009年07月25日発行)

あなたとぼく 二つの腐乱死体が
仲よく 埋められていやしないか

 この「あなたとぼく」は切り離せない。「二つ」の「腐乱死体」なのに、「二つ」ではない。死体は二つであっても、「あなたとぼく」は「ひとつ」。
 このことは、それにつづく連で書かれる。

でも肉親殺しをいうなら
あなたの方が ぼくより早かった
六十数年前 若い寡婦のあなたは
幼い姉とぼくに睡眠薬を服(の)ませ
自分も服んで 無理心中を計った
机の上に サクラが無心に散っていた
幸か不幸か 祖父母が訪ねて来て
内から釘付けした戸をこじあけ
医者が呼ばれて 三人は生還
あなたの子殺しは 未遂に終わった
姉は 子のない叔母のもとへ拉致
写真は その直後に撮られたもの
ぼくがその写真を持ち出すことで
あなたの未遂をやり遂げたとしたら
ぼくらは 奇妙な共犯関係ですね

 「あなたとぼく」は「共犯関係」。「共犯」--この美しいことば。それを発見するために、高橋の詩は書かれている。
 「ひとつ」のことをやりとげる二人。「ひとつのこと」の「こと」のなかで、二人は完全に重なり合う。完璧にひとつになる。そこに至福がある。
 そして、この作品の場合、共有される「こと」というのは、互いに相手を「殺す」ということだ。「殺す」--そして、生まれ変わる。

 殺すとは、ひとのいのちを奪うことだが、それは「いま」「ここ」とつながる「いのち」を否定することであり、その否定の奥には、「いま」「ここ」とはつながらない、まだ見ぬ「いのち」とつながる夢が託されている。
 別の生き方という夢が託されている。
 それはどんな夢か。「いま」「ここ」という時間までの「いのち」を永遠にとどめるという夢である。これから先の、何が起きるかわからない「いのち」ではなく、いままで生きてきた「いのち」を何度も何度も生きなおすこと、「いま」「ここ」から絶対に先には進まないということ。そういう夢。

 だが、夢のなかで「共犯」になれても、現実は、どうか。「肉体」「いのち」はことばとは違う。ことばでは「ひとつ」なれても「肉体」「いのち」はひとつにはなれない。

 最終連。

ぼくの完遂の結果
あなたは写真の中に入って
若い寡婦になりおおせた
ぼくも写真の中のあなたに抱かれ
幼い男の子になりおおせた
と言いたいところだが
では この写真の前にいて
写真の中のあなたとぼくとを
見ている老人は誰でしょう

 「共犯」の夢は、やりとげられなかった「現実」となって破られる。高橋は遅れて来た「共犯」者なのだ。生き遅れたのではなく、死に後れた共犯者なのだ。そして、死に後れたものは、生きなければならない。
 どうやって生きるか。

いま ぼくがしなければならないのは
写真の前の奇妙な老人を 殺すこと
みごと殺しおおせた暁には
その時こそは 言えますね
ぼく 一歳になりました
もう 二歳にも 三歳にも
もちろん七十歳にも なりません
安心して ずっと二十五歳の
若い母親でいてくださいね
ぼくの大好きな たったひとりの
おかあさん

 ぼくを殺すことによって生きるのである。そして、ぼくを殺すとは、このとき、「いま」「ここ」を否定して、「生きながらえた」出発点の一歳になることだ。一歳になって、成長を拒絶する。一歳のまま、いつまでも一歳を反復する。
 それは、ことばによって可能な反復である。

 ことばによる反復--それは、一歳のその瞬間だけのことではない。一歳から七十歳までの「いのち」を反復し、反復しながら一歳以外の時間を、一歳以外の高橋を殺す--そして、実際、いま、高橋はそうしている。その結果として、最後に、

安心して ずっと二十五歳の
若い母親でいてくださいね
ぼくの大好きな たったひとりの
おかあさん

 という。
 このとき、高橋は「母」になり、そして「母」として一歳の高橋に対して「ずっと一歳の/幼い息子でいてくださいね/私の大好きな たったひとりの/息子よ」と呼びかけている。
 「母」になり、そう語りかけるために、高橋は死んだ母を殺す、七十歳の自分自身を殺す。

 「二十五歳の母」になり、「一歳の息子」になる。そのとき「あなたとぼく」は永遠の共犯者として生きる。「七十歳のぼく」を「七十八歳の母」を殺すことで「ひとつ」になる。その「ひとつ」を「愛」と呼ぶために。


語らざる者をして語らしめよ
高橋 睦郎
思潮社

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