池井昌樹「ほろびのぽるか」 | 詩はどこにあるか

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池井昌樹「ほろびのぽるか」(「歴程」561 、2009年07月31日発行)

 池井昌樹「ほろびのぽるか」のリズムが楽しい。前半。

あかねのそらがはらをみせ
どんどんながれるものだから
おれもどんどんかけてゆく
あいつもこいつもかけてくる
ああまいかりんもふきとばし
すっぱいぱんだもふきとばし
おれはおまえについてゆく

 「ああまいかりん」は「甘い花梨」。「あまい」を「ああまい」とゆったり声に出す。その延びた呼吸の中に「あまい」と短くいってしまったときには存在しないものが紛れ込んでくる。
 それは「あかねのそらがはらをみせ」というとき、すでに紛れ込んでいる。空に腹がある、空が腹を見せるというときにすでに入り込んでいるが、その、この世のもの以外がまぎれこんだことを1行目の池井はまだ見極めてはいない。感じてはいるけれど、それがどんなに異質なもの、異界のものかを知らずにいる。知らないまま、それに惹かれている。知らないからこそ、「どんどんながれるものだから/おれもどんどんおいかけてゆく」と「どんどん」というような「ありきたり」のことばで、つまり手さぐりで追いかける。
 「あいつもこいつも」としか書くことができないのは、異界ではそれまでのことばが通用しないからである。通用しないことばを捨て去って、いっしょに紛れ込むことのできるものだけを池井は無意識に呼び集めている。

ああまいかりんもふきとばし
すっぱいぱんだもふきとばし

 ことばでは、吹き飛ばしている。けれど、それは巻き込むことである。吹き飛ばすとき、池井の肉体は「ああまいかりん」「すっぱいぱんだ」に接触する。接触せずに「ああまいかりん」や「すっぱいぱんだ」を吹き飛ばすことはできない。
 そして、そのときの肉体の接触が、花梨やパンダに影響して、「ああまいかりん」「すっぱいぱんだ」になっていいる。
 この世を池井の肉体で蹴飛ばしながら、この世を池井の肉体で汚染する(これは、いい意味で書いている)。この世を汚染した「証拠」というと奇妙な言い方だけれど、この世を汚染した印として、池井は「ああまいかりん」や「すっぱいぱんだ」の存在そのものとなって、「あかねのそら」の「はら」を追いかけていく。
 「はら」(腹)という「肉体」を追いかけて行く。
 しぶしぶではなく、はずむように、肉で充実した肉体が弾むようなリズムで。
 いまはすっかりスマートになってしまったが、私は、こういうリズムに触れると、昔の池井の肉体をそのまま思い出してしまう。ラーメンを食べると、そのラーメンの量がそのまま腹をぷわーっとふくらませてしまう、あのやわらかな肉体を思い出してしまう。
 池井の精神の肉体は、あのときの、10代のままの肉体なのかもしれない。
 そして、それが楽しい。
 若い若い池井にもう一度出っている気持ちになる。

 詩のなかほど。

おれらほろびのたみだから
もともとほろびるやくそくだから
くろくもよりもくろぐろと
よろこびいさんでほろびゆく
おしあいへしあいほろびゆく

 「ほろびる」ことはふつうの感覚では楽しいことではないだろう。悲劇的なことだろう。けれど、池井はそれを楽しんでいる。「ほろびる」ことを「やくそく」と池井は呼んでいるが、「ほろびる」ことだけが「約束」なのか。
 ちがうと思う。
 池井は知っているのだ。「ほろびる」とこが約束というより、生まれ変わるためには「ほろびなければならない」というのが約束なのだろう。滅びたあとに、再生がある。その再生は、具体的にはどんなものかはわからない。けれど、池井は、ほろびのあとにしか再生がないことを知っている。
 詩は、池井にとっては「ほろびる」方法であり、それは同時に「再生する」唯一の方法なのだ。

あかねのそらがはらをみせ
どんどんながれてゆくはてに
きんしぎんしのおおたきがあり
たなばたにしきのおおたきがあり
おおよろこびのおおわらい
みんなものてをたかだかと
まっさかさまに
もろともに

 「ほろびる」ことは楽しい。大笑いしながら「生まれ変われる」からだ。



眠れる旅人
池井 昌樹
思潮社

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