『旅人かへらず』のつづき。
四七
むさし野を行く旅者(たびもの)よ
青いくるみのなる国を
知らないか
西脇はときどき奇妙なことばをつかう。たとえばこの詩の「旅者」。なぜ、「旅人(たびびと)」ではないのか。
私は、どうしても「旅物」ということばを思い出してしまう。旅から送られてくるもの。「いま」「ここ」にあるのではなく、違った場所、違った時間から送り届けられるものを思ってしまう。
「旅人」は「いま」「ここ」(むさし野)を行きながら、実は、違う場所、違う時間を歩いている--そう考えると、この詩はおもしろくならないだろうか。そして、「むさし野」を歩きながら、「いま」「ここ」にないものを、「いま」「ここ」に呼び出すのである。「旅からの贈り物」のように。
それが「青いくるみ」。「青いくるみのなる国」。
この「青いくるみ」ということばも、私は非常に好きだ。
木になっているくるみ。夏の間は、まだ緑(青い)である。やわらかな緑の皮となまなましい肉に包まれて、その実は固い殻のなかにある。そして、その殻をたたきわって、熟していないくるみをすすると牛乳のような味がするのだ。--これは、私の子ども時代の夏の記憶だが、西脇も、そういう体験をしているのではないだろうかと思う。
私は「むさし野を行く」旅人ではないが、「青いくるみのなる国」を知っている。だからこそ、思うのだ。西脇は「むさし野」を歩きながら、遠い新潟の野を歩き、青いくるみを割ってかじっているのだ。
七九
九月になると
長いしなやかな枝を
藪の中からさしのばす
野栗の淋しさ
その実のわびしさ
白い柔い皮をむいて
黄色い水の多い実を生でたべる
山栗の中にひそむその哀愁を
この詩に書かれている熟れていない山栗の実のうまさを私は知っている。茶色く熟れて、イガがはじけるまで待てない子ども時代。そういう栗を私は何度もたべた。「青いくるみ」同様、そこには不思議な「いのち」の味がする。「いのち」が形になりきる前の、やわらかな感じ。
「淋しい」「わびしい」は形になりきれないもの--という意味でもある。そして、それこそが「美」である。その美を、西脇は「哀愁」と呼んでいる。
西脇順三郎研究 (1971年) (近代日本文学作家研究叢書) 右文書院 このアイテムの詳細を見る |