生と死の交錯。そのことを高橋は次の行で書き直している。4連目。
このところ 繰り返される
少年たちによる老人殺し
息子たちによる親殺し
見聞きするうちに ぼくは
奇妙な思いにとらわれました
ぼくもまた 老いたあなたを殺し
ついでに 老いたぼく自身も殺し
アリバイ作りに 六十数年前の
写真を飾っているのではないか
写真の背後 窓のむこうの庭には
スイセンやユリの球根といっしょに
あなたとぼく 二つの腐乱死体が
仲よく 埋められていやしないか
「老いた母」を殺し、若い母として生き返らせる。そのとき、高橋は、「老いた僕自身も殺し」たのだと気がつく。「老いたぼく」が「若い母」を思い出すのではない。「若い母」を思い出すとき、高橋もまた生まれ変わり、「幼いぼく」になっているのだ。写真の若い母が、「あてたになった」ように、高橋も「幼いぼく」に「なった」。そして、そうなるためには、「老いたぼく」は死ななければならない。死なない限り生まれ変わることはできない。
若い母、幼いぼく--それが現実であり、いま、ここにこうして生きている「老いたぼく」は幻なのである。
この詩は、そんなふうにことばが時間を超えて交錯するのだが、引用した部分の最後の2行に、私は、たちどまり、ぞっとして、同時にうっとりしてしまう。
あなたとぼく 二つの腐乱死体が
仲よく 埋められていやしないか
これは、「意味」的には、
あなたとぼくの二つの腐乱死体が
仲よく 埋められていやしないか
である。「あなたとぼく」が埋められているのではなく、あくまで「あなたとぼくの」死体が埋められている--というのが「意味」、論理としての世界である。
ところが、高橋は「の」を省略する。そして1字アキにしてことばをつないでいる。
「の」がないことによって、「あなたとぼく」は「死体」であることから切り離されて、まるで「生きている」ように感じられる。「腐乱死体」は死んでいない。生きたまま、腐乱して、庭に埋められている。
そして、生きているからこそ、そこで夢を見ているのだ。
「老いたぼく」が「老いた母」を殺す、という夢を。なぜ、そんな夢を見るかといえば、「若い母」「幼いぼく」になるためである。
これは「錯乱」である。だから、ぞっとする。だから、うっとりしてしまう。
「若い母」「幼いぼく」の親密な、充実した時間--その「時間」そのものに「なる」ためならなんでもする。
「あなたとぼく」は「腐乱死体」であるときは「二つ」であるかもしれない。けれども、「あなたとぼく」は「二つ」ではない。「ひとつ」だ。生きているかぎり「ひとつ」である。「腐乱死体」は「二つ」であるかもしれないが、「腐乱死体」となって「生きている」とき、その「生」は「ひとつ」である。
--私は、奇妙なことを書いているかもしれない。矛盾したことを書いているかもしれない。けれど、そういう矛盾した形でしか書けないこと、書けば書くほど奇妙になってしまうことを、私は、この高橋の詩から感じる。
生と死は、どこかで交代してしまう。死をみつめるとき、ひとは生を思い出してしまう。そして生を思い出すということで、死そのものを殺している。
死を殺す--というのは不可能なこと、絶対的矛盾である。しかし、ひとは、生を殺すだけではなく、死を殺し、死を殺すということをとおして生まれ変わる。そして、生まれ変わることによって、「いま」「ここ」にある生を殺す。そして、死を、すぎさって、とりかえすことのできない時間を生きる。
これは、幸福、というより恍惚というものかもしれない。
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