丸山健二『百と八つの流れ星』 | 詩はどこにあるか

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丸山健二『百と八つの流れ星』(上)(岩波書店、2009年06月10日発行)

 村上春樹『1Q84』と比べると、とても読みにくい本である。
 活字がまず読みにくい。漢字はいいのだが、ひらがなが普通の明朝体とは違う。なんとうい字体か知らないが、ふにゃっとしている。漢字のストレートな直線と比べると、気持ちが悪い。まず、そういう視覚的な部分でつまずいてしまう。漢字とひらがなのつながり具合につまずいてしまう。
 これは大事なことではないかもしれない。いや、大事なことかもしれない。つまずきながら読む。どうしても、読むスピードは遅くなる。遅くなると、ついつい余分なことを考えてしまう。ことばにそってストーリーを読むというよりも、ひとつひとつのことばにつまずいて、その瞬間瞬間に、あれこれと考えてしまう。
 いま、私が書いている漢字とひらがなの組み合わせ方が気持ちが悪い--ということも、そういう余分なことのひとつかもしれない。
 わかっていても、私は、まず自分が思っていることを書いてしまわないことには、次のことを書けない性格なので、まあ、それを書いてしまう。

 つまずきながら読んでいくと、ストーリーはどうでもよくなる。ストーリーというのは、どんなストーリーにしろ、結局、自分と関係のある部分しか理解できないからである。あるいは、知っていること以外は、何が語られてもさっぱりわからないと思うからである。
 そして、そう考えてしまうと、ではストーリー以外では何がわかるかといえば、やっぱり知っていること以外には何もわからない。知っていて、知っているけれど、まだことばにできない何かに出会うたびに、あ、これは、こういうことだったのだ、と確認するだけなのだと思う。
 ことばは、知っていることを、知っていながら、まだ自分のなかでは明確にことばになっていないことを思い出すためにある。
 これは、小説でも、詩でも、哲学でも同じだ。
 言い換えると、ことばは、こんなことを書いてもいいのだ、ということを知るのだ。ことばは、こんなことを書くためにあるのだ、ということを知るのだ。

 たとえば。
 「相似」という作品。小学校の夏休み。昼寝から覚めて、街へ出る。人とすれちがうが、いつもと感じが違う。ぶつかる、と思ったが、ぶつからない。人が自分のからだをすりぬけていく。あるいは、逆に、自分のからだが他人のからだをすり抜けていく。(どっちがほんとうかわからない。)人だけではなく、ものもすり抜けることができる。そして、自分の声は相手には届かない、聴こえないことを知る。
 そのあとの描写。

店員の掛けている眼鏡に私が映っていなかったのだ。ほかの客の姿はじつに鮮明だったにもかかわらず、真正面にいる私ひとりが抜け落ちていた。狭い店を広く見せるための鏡のなかでも同様だった。帰り道に覗きこむショーウインドーでも私だけが欠けていた。

 自分が透明になって、肉体が透明になって、鏡に映らない。ショーウインドーに映らない。こういうことは、だれでもが描写できる。透明人間の描写には、この手の描写はありきたりである。
 ところが、

店員の掛けている眼鏡に私が映っていなかったのだ。

 この1行に、私はびっくりしてしまう。
 この1行で、確かに、だれかの眼鏡のなかに自分の姿が映っていたのを見たことがある、と思い出す。ほんとうに、自分の姿を見たかどうか、それがいつだったか、ということははっきりしないにもかかわらず、そうなのだ、他人の眼鏡のなかにも、自分が映るということがあるのだ、ということを知る。
 他人の眼のなかに映る--ではなく、他人の眼鏡のなかに映る。
 ことばは、こんなことを書いていいのだ。こんな、つまらない(?)、というか、些細な具体的なことを書いていいのだ。そういう「時間」があることを、書いていいのだ。

 こういう部分が私は大好きだ。こういう部分を読んでいる瞬間、私は、ストーリーを忘れる。村上春樹のことばを借りていえば「物語」を忘れる。
 丸山健二が書いている小学六年生の少女の体験ということを忘れる。忘れて、自分自身の「時間」をそこに見出してしまう。そして、そこから、ああでもない、こうでもないということ、ことばにならないことを瞬間的に思い出す。
 それは、ことばにならない--つまり、まだ、だれも書いていないことが私のなかにあるということを知ることだ。自分が体験してきて知っているにもかかわらず、ことばにならずに、私のなかに存在しているものがあるということを知ることだ。
 そして、それは自分だけの力では見つけられないものなのだ。他人のことばに触れて、はっとする。ことばは、こんなふうに動いていいのだ、と知ることでしか、見つけられない何かである。

 そういう瞬間、私は、「詩を読んだ」という気持ちになる。

 古いページをめくりかえすのが面倒なので、「相似」の次の「初子」という作品をめくる。そうして、私は次の部分に出会う。ころがりこんだ他人の土地、他人の家、そこでなんとなく結婚してしまった男。その男に子供ができる。「ああ、もう、自由ではない」と感じる。そこへ、妻が子供を連れて、病院から家へ帰ってくる。男は子供とはじめて顔をあわせる。子供の涎をガーゼをつかってぬぐってやる。

子どもの体温を感じた途端、まんたくだしぬけに心臓が早鐘を打ち、気持ちが一気にうわずり、凄まじいほどの歓喜に浸り、高揚感に振り回されながら親としての絶対的な特権を自覚する。新生をもたらしたおのれに誇りを感じるや、自己を超えた意図が働き、生命の王座に着いた肉塊をやにわに抱きかかえ、その子が知覚するすべてを無性に共有したくなり、きらめく八月のなかへ出て行く。内心ぎくりとした妻がそのあとにつづく。

 男の内心の変化。心臓の鼓動が早くなる。その瞬間の「だしぬけに」ということばの力と、それにつづく描写もいいが、私は、その文章の最後の、

内心ぎくりとした妻がそのあとにつづく。

 この「内心ぎくりとした」に、あ、これは、私が知っていて、知っているにもかかわらず、ことばにすることができなかったことだったと知る。ことばは、こんなことを書いていいのだ、と知る。
 この描写は、村上春樹のいう「物語」を破壊する。
 なぜなら、私はそのとき、丸山健二の書いている作品のなかの「妻」のことを忘れてしまっていて、そこに書かれている妻ではなく、自分が何かの「予感」に内心ぎくりとしたことや、だれかが何かの予感に打たれて「ぎくり」としている瞬間をみたこことを思い出し、そのときの実感のなかにいるからである。

 「物語」など、どうでもいい。
 ある瞬間、ある衝撃。ことばにできなかった何か。それを、ふいに思い出し、自分ものとして取り戻すためにこそ、ことばはある。そういうことばに出会うために、私は小説を、詩を、哲学を読む。
 「物語」というものに何か役割があるとすれば、それは、そういうことばを受け止めておくための「いれもの」にすぎない。「いれもの」が重要なのではなく、その「いれもの」のなかの、「いれもの」をまるでないものかのようにして、どこかへ(つまり、読者の体験のなかへ)動いていってしまうことばだけが重要なのである。



百と八つの流れ星〈上〉
丸山 健二
岩波書店

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