誰も書かなかった西脇順三郎(4)  | 詩はどこにあるか

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コク・テール作りはみすぼらしい銅銭振りで
あるがギリシヤの調合は黄金の音がする。
「灰色の菫」というバーへ行つてみたまへ。
バコスの血とニムフの新しい涙が混合されて
暗黒の不滅の生命が泡をふき
車輪のやうに大きなヒラメと共に薫る。

 西脇の耳は私にはモーツァルトの耳のように楽しい。濁音というのは濁るという文字をあてるくらいだから「清らか」なものではないのだろうけれど、西脇の濁音はどれも楽しい。とても豊かな感じがする。それも、「耳」と書いたけれど、実際は「のど」が感じる豊かさである。思わず声が出てしまう。
 濁音をはっするとき、他人はどうかわからないが、私は「のど」がひらく。ひらく印象がある。そして、声帯がゆっくり震える感じがする。そのときの快感が西脇のことばにはある。
 1行目、2行目の、「意味」の渡り、そのリズムと、音階(?)の変化も好きである。
 「銅銭振りであるが」とつづけて読んだとき(改行、行の渡りがないとき)、「で」は私の場合、弱音である。そして「で」と「あ」は連続して「1音」に近くなる。フランス語の「リエゾン」とは逆の、つまり間に子音がはいらなず、音が崩れていく感じ、一種の二重母音のような感じになる。「で」と「あ」は同じ音階か「あ」の方が半音下がる。
 ところが、「銅銭振りで/あるが」の場合は、「で」は文末でかなり強い音になる。「あ」はさらに強くなる。そして、「で」の音を音楽でいう「ド」だとすると、「あ」は「レ」のように音階が高くなる。(私は関西圏の高低アクセントなので、標準語、東京圏、その他の地方のアクセントとは「音階」が違うかもしれない。)
 この変化があるので「あるが」の「が」と「ギシリヤ」の「ギ」の濁音の連続、が行の鼻濁音と濁音の動き、連続と断絶も楽しくてしようがない。「調合」「黄金」の鼻濁音の連続の前の「ギリシヤ」の「ギ」の破裂する音の感じが美しいアクセントになる。
 そして、濁音をたっぷり楽しんだそのあと、「灰色の菫」というなめらかな音をはさみ、もう一度「バー」という濁音が出てくるタイミングも楽しくてしようがない。
 濁音にはさまれることで「灰色の菫」という音が、完璧に異質のものとして輝く。「清音」もいいものだなあ、とうっとりしてしまう。


アムバルワリア―旅人かへらず (講談社文芸文庫)
西脇 順三郎
講談社

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