すみくらまりこ『夢紡ぐ女(ひと)』はすべて5行で構成されている。一種の定型詩である。ことばで何かを切り開いてゆくというより、ことばをとりまとめて、いまある世界を描写するということになる。「つむぐ」ということばが象徴的だが、すみくらせ、ことばをつむいでいるのだ。その、とありつめることばが、私には、「美しすぎる」。美しすぎて、1篇読むと、全部読んだ気持ちになってしまう。どこまで読んでも美しいままなんだろうなあ、という不満が、読む前から予兆のようにひろがってしまう。
1篇だけ感想を書く。「夜風」。ここでは、「定型」が「定型」のまま崩れている。そこが、私にはおもしろかった。
海の上は空、
静かに星騒ぎ
密かに魚遊ぶ。
そして、
雲生(な)さんと夜風。
「そして」。5行という定型のために挿入された1行である。省略しても「意味」は同じである。この1行がない方が、ことばの緊密度は高まったかもしれない。海と空の対比。「上」ということばがあるので、暗黙の内に「下」を含む。意識の奥で、「下」ということばがかってに動く。そして、そこから「上下」という「矛盾」が動きはじめる。
「静か」と「騒ぐ」。2行目の対比が美しいのは、1行目に、隠された対比があるからだ。
そういう動きを受けて、「密か」が効果的にひびく。「密かに」は2行目の「静かに」と同じ意味というか、「静かに」を別のことばを重ねることで意味をふくらませたものだが、そのふくらみが「騒ぐ」と「遊ぶ」をも重ね合わせる。「星」と「魚」という語に引っぱられると、「騒ぐ」「遊ぶ」は違ったことばのように見えるけれど、たとえば、「子どもが騒ぐ」「子どもが遊ぶ」では、「騒ぐ」「遊ぶ」に似通ったものである。「草が(木の葉が)風に騒ぐ」「草が風に遊ぶ」と、ことばを動かしてみれば、その重なりあいがわかるだろう。
「定型」が呼び込んだ、ことばの美しい動きである。
そして、4行目に「そして、」である。--これは「呼吸」である。1行目から3行目まで、ことばの連絡の仕方が、他の作品に比べると緊密すぎる。緊密になりすぎた。そのために、一息つくことが必要になったのだ。一種の「ほころび」(詩集のタイトルに「つむぐ」ということばがあるから書いているわけではないのだけれど……)である。「ほころび」であるけれど、この部分が、この1行が、私は一番好きだ。
無意味だ。無意味だけれど、それが無意味であるだけに、そこに「肉体」が現れてくる。というか、その無意味を通過することで、次の行が初めて生まれる。
雲を生さんと夜風。
主語は「夜風」。それは「騒ぐ」なのか。それとも「遊ぶ」なのか。どちらの世界と重なろうとするのだろうか。--その予想を裏切るように「生む」(なす)へと動詞を破っていく。
これは、おもしろい。とてもおもしろい。
騒ぐ子ども。遊ぶ草。「騒ぐ」「遊ぶ」は何を生み出そうとしているのか。強引に言えば「こころ」(精神)だろう。まだ形になっていな「こころ・精神」--それが、ある形になるまでの猶予期間。そのときの動きが「騒ぐ」「遊ぶ」なのだ。そして、その「猶予」と「そして、」という「息継ぎ」(呼吸)が重なることで、そこらかエネルギーをえて、「生む」ということばが噴出してくる。「騒ぐ」「遊ぶ」が「生む」に飛躍する。
そして、その動きを受けて、空、海という「上下」の「あいだ」に「雲」が誕生する。「あいだ」(間)が、雲によって動きはじめる。存在しなかったものが生み出され、動きはじめる。--ここにうごめいている「哲学」がおもしろい。
この作品には漢詩の「対句」の嗜好(?)も反映しているようだけれど、それもとてもいい。漢文体というは日本語の大切な財産だが、最近はとても少なくなっている。漢文体に触れると、気持ちがひきしまる、精神を洗い流されるという印象を受けるのは、私だけだろうか。
夢紡ぐ女―すみくらまりこ詩集 すみくら まりこ 竹林館 このアイテムの詳細を見る |