高橋順子『あさって歯医者さんに行こう』。短い詩が多い。「わたしの水平線」という作品に惹かれた。ふいに、海を見に行きたくなった。全行。
水平線は時々
疲れて たるみたくなることがある
そういうときには もやのカーテンをひいて
心ゆくまでたるめばいい
わたしの水平線も
ぴんと張っていたり 木と木の間の
ハンモックの紐みたいだったりする
たるんでいるときには
風船葛の青い実がいっぱい風に
揺れる夢をみている
きっぱり引かれているときには
わたしは夢をさがしている
水平線が「疲れて たるみたくなることがある」というのはとても魅力的なことばだ。水平線がそんなことを思うはずがない。そんなふうに思うのは、水平線をみているひとだけである。もっといえば、水平線が好きなひと、海が好きなひとだけである。
そのひとは、疲れて、ときどき海へやってくる。そして、ぼーっと海をみている。なぜ、水平線はいつもまっすぐなのだろう。だらんと、たるみたいとは思わないのだろうか。水平線がたるんでしまいたいと思ったら愉快だろうなあ。どうなるのかな?
ありえない空想のなかでこころを遊ばせる。そして、ひとり二役(?)になって、対話をする。それはほんとうは、「わたし」ひとりの思いなのだが、「二役」という「あそび」を経るので、なんとなく「わたし」そのものも「あそび」の愉快さが気分を洗う。ことばは、「あそぶ」ことができるのだ。
そういうときには もやのカーテンをひいて
心ゆくまでたるめばいい
これは、「あそび」だから言えること。いいなあ、「もや」に隠れて、たるむことができるなんて。
そうなだよなあ。「たるむ」ときは、やっぱり隠れて(人知れず)、たるまないと、たるんだ価値がない。たるんでいる、と指摘されるとたまらないからね。
「あそび」というのは、こころをのびやかにする。「たるんだこころ」は何をしているだろう。何ができるだろう。
風船葛の青い実がいっぱい風に
揺れている夢をみている
「夢をみる」と書かれているけれど、「わたし」自身がフウセンカズラになって揺れているような気持ちになってしまう。きっと、最初の「水平線」と同じだ。ことばを経て、対象と「わたし」が入れ代わってしまうのだ。
ことばは、息を吐きながら発する。そのとき、こころは「ことば」の中に入って、どこかへ飛んで行く。「肉体」のなかは空っぽ。「無心」。あ、ふいに、「無心」と「あそび」が結びつく。「あそび」は「無心」でするもの。「無心」の「あそび」が、こころを軽くする。ことばで遊べば、ことばのなかへ心は出て行ってしまい、体が軽くなる。そして、その体の軽さに似合ったものが体に入ってきて、フウセンカズラそのものになる。そして、揺れる。
いいなあ。
海を見に行きたいと私は最初思ったけれど、いまは、フウセンカズラになってゆらゆら揺れたいなあ、と思っている。(なんて、いい加減な感想だろう。)
最後の2行もいいなあ。
「あそぶ」だけ遊んだあとは、ちょっとまじめになって見る。遊んだあとの新鮮な気持ちで自分を見つめなおしてみる。
そうすると。
きっぱり引かれているときには
わたしは夢をさがしている
あ、なかなかカッコいいじゃないか。「私って、けっこうカッコいい人間なんだ」と思えてくる。こんなカッコいいことばが見つけられるんだから。
え? そのことばを見つけたのは高橋順子であって、私(谷内)ではない。まあ、そうなんだけれど、いいんじゃない? 「あそび」なんだから。「ひとり二役」ごっこなんだから、その「あそび」のなかで、ことばをとりかえっこしてしまえばいい。
ねえ、ねえ、高橋さん、高橋さんの役は「海」、私は「海」を慰める方。だめ?
というのは冗談、軽口だけれど、そういうことをいいたくなる。それくらい、気分が軽くなる。
読書は無心の遊びなんだなあ、とふと、けれど、真剣に思う。
この詩集のあとがきで、高橋は「無防備」な作品と読んでいる。無防備なので「恥ずかしい」とも書いている。でも、無防備だからこそ、読者はどこまでも接近して行ける。そして、ねえ、役をとっかえても、なんて我が儘もいえる。
我が儘を言ってみたくなる詩--というのは傑作の条件だと思う。詩は書いた人のものではなく、読んだ人のもの--そういう「我が儘」をいいたくなる詩が傑作というものである。
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