安英晶『虚数遊園地』(2) | 詩はどこにあるか

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安英晶『虚数遊園地』(2)(思潮社、2009年05月31日発行)

 1行の中に、複数の「時間」がかかえこまれ、それが噴出してくる。あらゆる存在が複数の「時間」を生きている。そして、「複数の時間」を生きるということは、そこには当然「死」も含まれることになる。

「紅梅」の1、2連目。

あれ、
いち枚 ゆめのまえにひろげ(なにを?

生きるとか 死ぬとか うすいゆめ
いち枚 和紙のようなもののふくらみに 包んで
ことばなんて やくたいないものを
ころがしている

 「生きるとか 死ぬとか うすいゆめ」。生と死は「とか」というあいまいなことばで同列に並んでいる。そして、それは「ゆめ」のように区別がないのだ。
 それは書き出しからはじまっている。
 書き出しの「あれ、」のなかに、すでに「複数の時間」がある。「あれ、」というのは驚きの声である。驚きというのは、ある存在に、別の存在を感じたとき生まれる。書き出しから、「いま」「ここ」にあるものとは違う存在を感じて安英は書きはじめる。そして、次の行。

いち枚 ゆめのまえにひろげ(なにを?

 括弧は、開かれたまま、つづいていく。この開かれたままというのは、そこに「別の時間」が噴出してきて、それが同時に存在していることを示している。
 むりやり(?)この詩に「意味」を持たせようとすれば、誰かが紙をひろげ死を書いている(文を書いている)とでもいえそうなのだが、それは単なることばを動かしていくときに利用している「構造(ストーリー)」のようなものであって、詩は、そういう構造を突き破って動いていくものの中にある。
 1行のことばは、その1行の中にある複数の時間によって破られつづける。
 3連目。

あとすこしで
川にたどりつくはずなんですが
でも/だから(川はもう光ってみえています
川がひかり森がひかり
昼だというのに 月まで光ってきそうな気配

 「でも/だから(川はもう光ってみえています」という行が象徴的である。「でも」と「だから」はどちらでもいいのだ。というよりも、両方であるのだ。「でも」と「だから」が両立するとき、他の存在も両立しはじめる。「川」と「森」は別個の存在であり、これが「両立」するのはあたりまえのように見えるかもしれないが、その「両立」を意識するかどうかは別問題である。「両立」という意識で読まないと、ここでは大切なこと--つまり、1行に複数の時間があるということを見逃してしまう。安英の思想が1行のなかに複数の時間を把握すること、を見逃してしまう。
 複数の時間の「両立」が端的に現れているのが、「昼だというのに 月まで光ってきそうな気配」である。「昼」と「月が光る夜」。それが「両立」する時間が、ここにあるのだ。

 1行に複数の時間が存在する。--そう意識して目をこらすと、次の連から、何が見えるだろうか。

あれ、
ひそと 紅い梅の花 ほころぶよ
そんな 他愛もないこと
あが咲いて
ふが笑って
ほら かき分けてくる
(なにを?

 意識の不連続と連続の不思議さ--意識に連続と不連続があるから、そこには複数の時間が入り込む「間」があるのだ。
 「ひそと 紅い梅の花 ほころぶ」という行と「あが咲いて/ふが笑って」という行のいちばんの不思議さは、前者に「助詞」がないことである。「ひそと 紅い梅の花がほころぶよ」と助詞「が」があっていいはずなのに、助詞が欠落する。そのかわり、その「助詞」は「あが咲いて/ふが笑って」という意味不明の行ではしっかり存在する。
 「あ」も「ふ」もなんだかわからないものである。そういうわけのわからないもの、あいまいな「時間」をしっかり呼び込むためには「が」という「助詞」がつかわれ、具体的な梅の花のほころびには、「が」が省略されている。
 この「が」をつかったり、つかわなかったりする意識の動きのなかに、複数の時間があるのだ。
 ここから、「死」を現実に呼び込むまでは、もう、時間を必要としない。

か、そうか
枝先にあかいもの
ぽっちり咲いて 咲いたようで
どうやら むこう側から 匂ってくる

さて あそこに居すわっているのは人情の残像で
あれ、
ゆめのまえにいち枚 ひろげ
きょうはきれいな梅見の日



幻境
安英 晶
思潮社

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