誰も書かなかった西脇順三郎(1) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

詩の感想・批評や映画の感想、美術の感想、政治問題などを思いつくままに書いています。

 「誰も書かなかった」というのは嘘である。はったりである。私は詩を読むのは好きだが、詩の批評を読むのは好きではない。あまり読まない。自分勝手に読んで、その感想書いているだけである。だから西脇順三郎ほどの詩人の場合、きっとどんなことを書いてもすでに誰かが書いてしまっているに違いない。何を書いても誰かの書いたことと重複するだろう。そうしたことをていねいに調べ、誰それはこの行についてこれこれのことを言っている、私もそう思う、いや私はそうは思わないと書いてみても、うるさいだけの感想になると思う。だから、誰のどんな感想・批評も引用しない。書かれた背景も無視する。ただ、私が読んだときに感じるままのことを、感じるままに書いていこうと思う。
 テキストは筑摩書房「定本 西脇順三郎全集」(1993年12月10日第1巻発行のもの)。引用にあたっては、「正字」「踊り文字」はとらなかった。表記の方法があるのかもしれないが、私はネット上でのその表記方法を知らないので。

天気

(覆された宝石)のやうな朝
何人か戸口にて誰かとささやく
それは髪の生誕の日。

 1行目の「(覆された宝石)のやうな朝」の音が私はとても好きである。私は宝石など見たことがないので、「覆された宝石」というものをイメージできない。一度も目に浮かんだことがない。「くつがえされたほうせき」の音を分析して、何が出てくのかわからないが、「が」の濁音がこの行では私には(私の耳には)とても美しく聞こえる。新鮮にきこえる。宝石--たぶん、きらきらと透明なもの。それを裏切るような濁音。そのまわりの「う・う・あ・え・あ・え・あ」という母音の動き。喉の動きも、不思議な快感がある。
 「やうな朝」の「やうな」という旧かなづかいと、それを裏切るような口語の「音」の違いも、その前の「あ」の揺らぎを感じさせて、とても惹かれる。
 その新鮮な音楽とは向き合う2行目の「ささやく」。この弱音のイメージによって、1行目の音楽が不思議に変化する。
 賑やかな音なのに、耳をすますと、とてもシンプルな、静かな音に変わっていくような、そういう変化を感じる。1行目の「音楽」が2行目の「ささやく」によって、それこそ覆されたような印象になる。

 そこが、私は、この詩では一番気に入っている。

詩集 (定本 西脇順三郎全集)
西脇 順三郎
筑摩書房

このアイテムの詳細を見る