今さっき
そこの家で
ここのえのはなが
咲きました
八重よりひとえ多い
九重の
深紅いろのはなです
うすい貝の詰めが十枚
ひかりと
あそんでいます
とりが啄んだのか
花の柄が
そっくりそのまま
ここのえのはなびらのかたちで
おちてきました
はなの
あおあかるい陰で
だれかが
真新しいお墓を拭きはじめます
1行で書けることを数行に分けて書いている。その行わけに特に変わったところがあるわけではないが、行分けにした瞬間から、ことばが「ゆったり」する。ことばの「間合い」がゆったりとして、その「間合い」に引き込まれていく。
1行1行に「意味」(?)があるのではなく、「間合い」に意味がある。
現代のように早口が勝ち(?)という風潮の中で、こんなふうにゆったりとことばが展開すると、そのリズムに誘い込まれながらも、これは何かとんでもないことを企んでいるじゃないかな、という不安がよぎる。
そして、実際、最後の最後に「企み」が出てくる。
「誕生」というタイトルなのに、「墓」が出てくる。「いのち」の「誕生」のなかには「死の匂い」がすると言ってしまえばそれまでだが、あくまでゆっくりと語る。語られる「死」さえも、いま、ここにあるというのではなく、遠くにあるという印象で語る。
そして、「遠い・近い」は関係ないのだ。
「ゆっくり」進めば遠くなる、というものでもない。「ゆっくり」進んだ方が、その「ゆっくり」を裏切って、向こうがこっちへやってつくるということもあるかもしれない。「近く」にあるから、「ゆっくり」進むだけなのかもしれない。
あおあかるい陰
このことばが絶妙である。「あおい陰」「あかるい陰」ではなく、「あおあかるい陰」。「あおあかるい」ということばを私はつかわないし、聞いたのも初めてだが、すぐにその色がわかる。これは、それまでのことばが「ゆっくり」進んできているからである。ゆっくり進んできているから、「あおあかるい」ということばを聞いたとき、それを「あお」と「あかるい」が入り混じったものとして、自然に感じることができる。
そして、その瞬間に知るのだ。
安英のことばがこんなにゆっくり進むのは、それはもしかしたら、1行1行の短いことばの中に、何かがまじっているからではないのか、と。
書き出しの、
今さっき
それは、たとえば数秒前、あるいは数分前のこと?
そうではなくて、もっともっと前のことなのではないのか。 100年、 200年前のことなのではないのか。 100年前、 200年前を「今さっき」とは言わないけれど、ある瞬間に「 100年前」「 200年前」を思い出すことがある。そして、その「 100年前」「 200年前」はことばで書くと明確に離れているけれど、感覚としては、すぐ「そば」ということがある。たとえば、「今さっき」、江戸時代のことを思い出した瞬間に、(あるいは平安時代の物語を思い出した瞬間に)、そこの家で花が咲きました--ということはありうるのだ。
そしてそうならば、「そこの家」自体も、現実の家であると同時に、遠い過去につながる家でもあるのだ。江戸時代の家、平安時代の家の「歴史」をかかえこんで、そこにある家、つまり「時間」を内包している家でもあるのだ。
そうなると花(桜? 梅?)もまた、はるかな時間を含んでいることになる。
「時間」を含むということは、たとえば花なら、そこには季節の繰り返しがあり、当然のことながら「生」と「死」が入り混じっている。繰り返されている。
安英は、その入り混じった「時間」をゆっくり語ることで、押し広げ、開いているのだ。ゆっくりゆっくり開いていくと、開花(誕生)の向こうに、繰り返された「死」が見えてくる。
花がこんなに美しいのは、その「時間」のなかに「死」をかかえこんでいるから。「死」を体験している「生」だけが美しい。それは生きている人間に「死」をかすかに覗かせてくれるからだ。
知らないものが「見える」というのは、究極の美の体験である。
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