おおつぼ栄「鎮花祭」、井崎外枝子「帰郷」 | 詩はどこにあるか

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おおつぼ栄「鎮花祭」、井崎外枝子「帰郷」(「笛」 248、2009年06月発行)

 おおつぼ栄「鎮花祭」は、ことばの動き方がおもしろい。

横に座る人の手から延びる
小枝の(花の)節 虫 葉っぱ

風が運んできた花びらが描く
白い四角い空間(手紙の)庭

 かっこのなかのことば。それは前へ進んでいるのか。後戻りしているのか。それともとどまっているのか。(花の)は、花へ行きかけた視線が「節」にもどり、虫、葉っぱと花から離れていく感じがする。
 視線と、意識がずれる。そのずれた意識が「記憶」になる。
 その微妙な「間」へ風が花びらを運んできて、それが、庭の白い四角い空間を「手紙」のように見せる。庭を「手紙」のようだと思う。「手紙」は、ここにはない。しかし、「記憶」にはある。「手紙」を思い出しているのだ。
 現実に、意識、記憶が交じり、そのせいで、この花見が、おおつぼ独自の花見になる。

フェンス越しの樹 時々突風 足の長い虫
花吹雪 羽根のひかる虫 花ふぶき

虫のみじろぎ 透明な花びらの陰 青い蜥蜴
山ぎわの昼下がり (春下がり)ぶら下がり
庭いちめん 花びらしきつめ
花を鎮める祈祷

身近に座る人の輪郭 体温 ひざ頭
延びてくる 密かな一体感
おずおずと手を小枝に沿わす(花の・

<左記へ移ります>穿たれた凹みの(手紙の・
右下がりの青いインク 尾の切れた蜥蜴

途切れて消えた時間を
喰っている なぞっている(春下がりの・

並んで座って
遠慮なくまとわりついて 無心に
ほてりをひろう

いずれまた 花の季節に

 ここで思い出されている人は、いまはいないのかもしれない。だから思い出すのは「その人」というよりも「時間」なのだ。
 「春下がり」というのは奇妙なことばだが、そうとしか呼べない「時間」が、おおつぼにはあり、その「時間」のなかに(花の)ふぶき、(手紙の)記憶が重なるのだろう。青いインクで書かれた右下がりの文字。なつかしい恋なのだろう。
 何度も繰り返したのかもしれない。何度も繰り返したいのだ。この花見を。ひとりで花を見ながら、恋人を思い出したいのだ。
 (花の)(手紙の)(春下がりの)という、かっこに閉じられた「時間」が、透明に浮かび上がってくる詩だ。



 井崎外枝子「帰郷」は帰郷してみたら、ふるさとはすっかり様子が変わっていた。「家」は記憶のなかにしかない。そして、その「記憶」が見えるのだ。それは現実を裏切って、目の前に存在する。

帰郷というのだろうか、何年ぶりかの
だが、家は近づいてはこない
あんなにはっきり見えるというのに

 それは絶対に近づけない「距離」なのだ。記憶はいつでも頭の中にある。「肉体」のなかにある、ともいえる。それが「肉体」のなかにあるからこそ、「肉体」と「記憶」の距離は変わらず、永遠に近づかない。近づかないことによって、より生々しく見えてくる。たしかに、記憶とはそういうものかもしれない。
 それは、「家」がそこに存在しないことを確かめることによって、より生々しくなる。

帰郷というのだろうか、それでも
立ち木には見覚えがあり、湿った苔の
においも纏わりついてくるというのに
ああ、ここまでなのだ
戻るしかないのか。下の道へ
途中で振り返ってみると
家は、前よりもはっきりと
その後ろ姿を見せているではない

 最後の「後ろ姿」がとても美しい。それは「ふるさと」から去っていく「後ろ姿」である。「家」が去っていく。そのときの「後ろ姿」である。それが、井崎には見える。
 記憶は、生きている。生きているのが記憶と言うものなのだ。


母音の織りもの―井崎外枝子詩集 (北陸現代詩人シリーズ)
井崎 外枝子
能登印刷出版部

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