『単行詩集未収録詩篇Ⅱ』(遷座1946-1969年)。「紙上不眠」というシリーズの詩が何篇かある。そのタイトルの作品のと終わりの2行
鳥が啼くのにわたしの眼はねむれない
夜が明けるのにわたしの耳はねむれない
これは、少し奇妙である。一般的にいえば、鳥の鳴き声(さえずり)に眠りがじゃまされるのは眼ではなく耳である。また夜明けの光に眠りがじゃまされるのは身ではなく眼である。ところが田村はそのふたつを入れ換えて書いている。
これは何度も書いてきたが田村の詩の特徴のひとつである。感覚が「肉体」のなかで融合する。入れ代わる。「肉眼」は聞き、「肉・耳」は見る。そういうことがおきる。その融合のなかに詩がある。
この詩が特徴的なのは、その感覚の融合が「物語」からはじまっていることである。
引用の2行に先立つ2連目。
物語のなかの少年が物語のなかの窓の下を通る 私は頁をめくる…… 頁の翳で誰かがめざめる 扉をひらき鏡の奥の部屋から誰かが降りてくる…… 少年の過ぎ去つた跡を追つて誰かがわたしの窓の下を通る 私は夜をめくる…… (略) 輪のなかでわたしはねむれない……
「物語」と「わたし」が融合する。「窓の下を通る」という「動作」(運動)によって「少年」と「わたし」が融合し、「頁」と「夜」が融合する。そして「ねむれない」。何かが融合するということは、実は、「わたし」の枠を越境して「めざめる」ことなのだ。「肉眼」「肉・耳」は「めざめる」ことしかできない。「ねむる」ことはできない。
その体験を、田村は「物語」(紙上のことば)から体験している。「物語」はもしかすると「詩」かもしれない。「物語」と書かれているが、それは「ストーリー」ではなく、ストーリーを突き破ってあらわれる「詩」かもしれない。
詩のことばによって、めざめ、ねむることができない田村--そういう「自画像」がここには描かれている。
そう読んではいけないだろうか。
「生きものに関する幻想」にも田村の「思想」の出発点というか、思想になろうとしていることばがうごめいている。
それは噴水
周囲から風は落ちて 水の音だけひびいてくる……
それは夜のひととき
誰もゐない……
わたしと星の対話
わたしと星のあひだには それでも生きものがゐて わたしを別のわたしにしたり 星の遠い時間に置きかへたりする生きものがいて……
それは噴水 生きものは孤独
生きものは わたしと星のあひだにゐて やつぱり孤独
「あひだ」。「間」。「わたし」と「他者」、相いれないもの。それをたとえば「矛盾」と呼んでみる。「矛盾」の「間」には「生きもの」がいる。
だからこそ、矛盾→止揚→発展という弁証法へと、田村のことばは動いていかないのだ。
矛盾→相互破壊(解体)→いのちの原型(未分化のいのち)へと動く。「未分化のいのち」をくぐることで、「わたし」は「別のわたし」になる。たとえば「眼」は「肉眼」になり、「眼とは別」の機能を持つようになる。「眼」は「肉眼」となることで、「見る」ではなく「聞く」ということをしてしまう。
そして、そのとき、そういう運動をしてしまう「生きもの」(いのち)は孤独である。なぜ、孤独か。「肉眼」は「眼」とはちがって、「聞く」。「肉・耳」は「耳」とはちがって「見る」。「肉眼」は一番親しいはずの「眼」と手を結ぶことができない。同じ仕事ができない。「肉・耳」も同じ。そういう状態を、田村は「孤独」と呼んでいる。
その孤独は、田村の孤独と、声をかわす。互いに、その孤独を感じ取る。
生きものは わたしと星のあひだにゐて やつぱり孤独
「未分化のいのち」は、それを発見されるのをただ待っている。だから、田村はそれを見つけにゆく。「矛盾」を叩き壊すことで。
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