『田村隆一全詩集』を読む(111 ) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

詩の感想・批評や映画の感想、美術の感想、政治問題などを思いつくままに書いています。


 「紙上不眠」を書いていた時代(1946年ごろ)の作品には、田村の思想がうごめいている。キーワードとなることばがぶつかりあいながら、互いの動きを手さぐりをしているようなところがある。
 「不在証明」。その1連目。

風よ おまへは寒いか
閉ざされた時間の外で
生きものよ おまへは寒いか
わたしの存在のはづれで

 「閉ざされた時間」と「わたしの存在のはづれ」が、ここでは「同じもの」である。「風」と「生きもの」も「同じもの」であり、それに対して、田村は「寒いか」と問いかけている。
 「わたしの存在のはづれ」という表現は非常に抽象的だ。「はづれ」は「外れ」とも書く。そうすると「時間の外」の「外」と「はづれ」は「同じもの」になり「閉ざされた時間」と「わたしの存在」も「同じもの」になる。
 「わたし」を田村は「時間」と考えていることになる。
 そして、「時間」に「閉ざされた時間」があるということは、「開かれた時間」というものもどこかに想定されていることになる。同じように「開かれたわたしの存在(わたしという存在)」もどこかに想定されていることになるだろう。
 ここで田村がおこなっていることは、田村自身の「ことば」の定義である。あることばを別のことばで定義する。「重ね合わせる」ことで、「ことば」に田村独自の「意味」を持たせようとしている。「流通している」ことばではなく、田村独自のことばを手さぐりしているのである。

 いま、私は、「定義」をことばを「重ね合わせる」と書いたが、この「重ねる」は2連目以降に出てくる。

谷間で鴉が死んだ
それだから それだから あんなに雪がふる
彼の死に重なる生のフィクション!
それだから それだから あんなに雪がふる
不眠の谷間に
不在の生の上に……

そのやうに風よ
そのやうに生きものよ
わたしの谷間では 誰がわたしに重なるか!
不眠の白紙に
不在の生の上に

 「閉ざされた時間の外れ」と「わたしの存在のはづれ」。そのどちらが「死」であり、どちらが「生」なのか、よくわからない。それはたぶん、どちらでもいいのだと思う。「矛盾」ではないけれど、まったく別の「もの」(こと)がふたつあり、それが融合せずに向き合っている。それを「重ねる」とは、ある意味で「融合」させることでもある。このとき問題なのは、どちらが「死」、どちらが「生」であるかという判断ではなく、(どちらが「矛」で、どちらが「盾」という判断ではなく)、そういうものを「重ねる」という意識である。
 「重ねる」ために何をすべきなのか。田村は、この時点では、まだ「答え」を探り当ててはいない。ただ、そこに「答え」があるらしいと「予感」して書いている。

 この詩の1連目では「閉ざされた時間」と「わたしの存在」は「同じもの」だった。そして、2、3連目を読むと、「わたしの存在のはづれ」と「不在の生」もまた「同じもの」である。ということは「閉ざされた時間」というのは「不在の生」ということになる。
 このころ、田村は「わたしの存在」(わたしという存在)は、何もせずにそこに存在するだけでは「不在の生」なのだと感じていたことになる。
 「実在の生」(と、かりに呼んでおく)は、どこにあるのか。どうすれば、それを手にいれることができるか。
 田村のことばは、その「実在の生」をもとめて動いてく--そのことを暗示する初期の作品である。



ぼくの中の都市 (1980年)
田村 隆一
出帆新社

このアイテムの詳細を見る