林美佐子「人形」 | 詩はどこにあるか

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林美佐子「人形」(「詩遊」22、2009年04月30日発行)

 林美佐子の年齢を知らないので、「人形」という詩が、彼女自身の体験なのか、それとも少女の思いの代弁なのかわからない。たぶん、代弁なのだろう

私たちは校舎の裏に皆で集まり
セーラー服のスカーフで
着せ替え人形の首を絞める
そのうち皆すぐに飽きて
裸にした人形同士を絡ませあう

チャイムが鳴ると私たちは
人形をロッカーに隠し皆で着席する
配られた紙に将来の夢を書く
隣の子が書き終えて席を立つ
他の子も次々に書き終える
私だけ鉛筆の芯が薄すぎて
紙の上をただ手がすべるだけで
書けない

私は校舎の西の山寺へ行き
長く急な石段の上から人形を落とす
ぎゃぁと悲鳴をあげた人形の顔は
突き落とされた私の顔で
際限なく下へ下へとつづく石段を
どこまでも転がり落ちていく

 「皆」ということばが1連目と2連目に、何回か出てくる。しかし、その「皆」が「私」と肉体を共有しているように感じられない。「夢」というか、「意識」も共有しているようには感じられない。「私」が「皆」のなかに溶け込んでいる、溶け込むことでひとりでは獲得できない何かをつかみ取っているという感じがしない。
 「裸にした人形同士を絡ませあう」のあと、もう一度、暴走しないことには「皆」の意味がない。「皆」のなかには、そういうことを体験として知っている人と体験はしていないけれど知識として知っている人がいる。また、知識としても知らない人もいるかもしれない。ようするに、「皆」というとき、そこには「均一」の「体験・知識」がない。だからこそ、「体験・未体験」「知識・無知」がからまりあい、暴走がおきるのである。
 それが「皆」の魅力(?)である。
 そういうことが書かれていないので、あ、これは林がだれかの代弁をしているのだな、という印象が残る。こういう印象は、つまらない。興ざめしてしまう。
 2連目の後半から「皆」は「私」から離れて行く。そして3連目で「私」だけが暴走する。もちろん、そういうこともあるだけろうけれど、そういう場合はそういう場合で、1連目から「私」み「皆」から離れていないといけない。
 どうも、ちぐはぐである。

 詩はもちろん自分の体験を書く必要などない。他人の体験を書いてもかまわない。けれども、そのとき「肉体」の共有がなければ、それは「絵空事」になる。
 2連目の、

私だけ鉛筆の芯が薄すぎて
紙の上をただ手がすべるだけで

 の繰り返してしまう「だけ」に不思議な魅力があるので、「皆」のあつかいがとても気にかかる。「皆」など気にせず、「私・だけ」「すべる・だけ」の「だけ」をもっともっと追いつめて「だけ」だけを描けば、少女のこころを代弁できたのではないかと思う。